文京区について

文京区の地形
 武蔵野台地の東端部に位置しており、区内には台地が広く分布すます。また東の境界沿いと南側の神 田川沿いは谷地となっており、区のほぼ中央部分にも比較的大きな谷地が縦方向に横たわっています。
 戦前は本郷区と小石川区に分かれていましたが、本郷区は本郷台地で、東は台東区との境を根津谷で区切り、小石川区とは茗荷谷・小石川谷を境としましました。本郷台は小石川谷の支谷である鶏声ヶ窪(指ヶ谷)が入り込んで白山台を作ます。なお本郷台は「山の手」の小指の位置に擬えられています。向ヶ丘は、上野台から根津谷を挟んで向こうの台地の謂いで、本郷台全体ではなく東京大学一円の本郷台の部分を指しましました。根津谷は石神井川の流路跡で、同川が飛鳥山で現在の川筋となってからは、染井などの湧水を水源とする谷田川(藍染川)となりましました。小石川谷は谷端川(大下水・千川)、指ヶ谷は東大下水という川が流れていましました。小石川とは「石川の小流」の意で、石川とは石川原を伏流する川をいう。江戸時代に千川用水から分水を受けるようになって千川と呼ばれるようになりましが、このとき大きな川となり、不忍通りの猫股橋付近ではしばしば洪水を引き起こし、死者も出るような災害をもたらしましました。
 小石川区は、茗荷谷・小石川谷の西の雑司ヶ谷台・小日向台・小石川台・関口台で構成されます。雑司ヶ谷台・小日向台・小石川台の間に谷間はなく階段状に低くなります。関口台は音羽谷で区切られ、神田川との間に伸びた舌状台地の先端部で目白台とも謂います。音羽谷は池袋の丸池からの弦巻川と、大塚からの音羽川が平行して流れていましたが、いずれも暗渠化して水面を覗うことはできません。なお小石川 台は山の手の薬指の部分に当たります。

地形・地質と住宅地盤
 ●台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われています。 関東ローム層は、上部のローム層(赤土)と下部の凝灰岩粘土に大別されるますが、自然堆積したローム土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好な場合が多いです。

 ●台地と低地の境
 台地の側面が低地側へと下る斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所もありますが、後背地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗によって台地側から運ばれて 再堆積した軟弱土が分布しています。また人為的に造成されていることも多く、場所によって盛土の厚さが 異なるように地盤のバランスが悪くなっていることがあります。したがって、不同沈下を防止するような 基礎補強策が必要となることもあります。

 ●谷底低地
 台地部が小河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布しています。台 地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地盤 となっています。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となることもあります。弦巻川・神田川の流域、茗荷谷、千川(谷端川)の流域、鶏声ヶ窪・指ヶ谷の流域、根津 谷、護国寺の東の谷。

文京区の変遷
 現在の文京区の区域に属する江戸時代の町々は、慶応4年(1868/明治元年)5月12日江戸府 所属。7月17日東京府所属。同7年大区小区制により第四・第五・第九大区に編入。この大久保利通の独断専制に全国規模で不平武士が決起、これに大久保が弾圧で応じたためで各地に抗争が勃発しましました。その最たるものが明治10年の西南戦争で、大久保が己の独裁のために盟友である西郷隆盛までも屠ったためにいよいよ国民の敵と見なされ、大久保芟除こそが日本の目的となった。翌11年5月 14日誅殺から逃れるため仮皇居に向かう紀伊国坂の通勤路を、麹町は清水谷の沢道に変えた数日後、 大久保は正義の刃の下に斬殺され黄泉の国へ旅立たされましました。親玉を取られた内務官僚たちは周章狼狽 してなすところを知らず。2ヶ月後の7月22日大区小区制を廃止して「郡区町村編制法」を施行、 本郷区・小石川区が成立し自治権を回復しました。同22年5月1日「市制町村制」施行、同31年10 月1日東京市独立。同44年「市制町村制改正」により本郷・小石川・小日向を冠する各町はその冠 称を削除。昭和7年10月1日東京市35区制。同18年7月1日東京市の自治権が増大したことを 危惧する内務官僚が、「府県制」を改正して東京市と東京府を廃し東京都を誕生させましました。直轄監理を目指しましました。ところが敗戦で占領軍に支配されるところとなり、同21年9月27日知事・市区町村長 は公選制となりましたが、これには内務官僚が驚愕して占領軍に自治権の拡大をしないように申し入れたが、逆に白人に強権政治や私利私欲の行政がどれほど愚かであるかを説かれ、涙ながらに非を悟って立ち帰ったといいます。同22年戦災からの復興のための都心区の再編統合により本郷・小石川両区が合 併して一区(139町)となりましました。  新住居表示は完了。平成16年の町名数は19。区役所は春日1丁目です。藩邸・旗本士宅など の武家屋敷が多かったため何となくしっとりとした住宅区となっていて、都心にありながら中心3区 より喧騒のない上品な区に仕上がりましました。友好・姉妹都市は、サッカーのワールドカップ・ドイツ大会 の日本の初戦オーストラリア戦が行われた南ドイツの静かな文化都市カイザースラウテルン市。図書館は8、ほかに国会図書館東洋文庫・永青文庫・ふるさと歴史館などがあります。小学校24(国立3、私 立1)・中学校27(国立3、私立13)・高校26(国立2私立20)大学は東大ほか東京医科歯科 ・筑波(教育)・順天堂・東洋・中央(理工)・日本医科があり、短大は跡見学園・拓殖・東洋音楽・ 東洋・東洋女子・文京学園など。文化施設は護国寺・伝通院・根津神社・湯島天神・白山神社・小石 川植物園・六義園・小石川後楽園・東大育徳園・関口芭蕉庵・東京ドームシティ・小石川公園・新小 石川公園・弥生式土器出土遺跡・・・・・

■カイザースラウテルン
 ドイツ連邦共和国のラインラント・ファルツ州の中心に位置し、フランクフルト市から南西へ約1 00kmの距離にあます。面積は約139uで、文京区の約12倍、人口は約10万人。市の周辺は起 伏に富んだ大きな森に囲まれています。そこは静かな佇まいの中に、新旧の住宅地と緑の自然がよく調 和した古い歴史の美しい町だ。町には、大学や各種の学校が散在し、劇場、ホールなどの施設やサッ カースタジアムなどのスポーツ施設も整備されています。FIFAワールドカップドイツ大会の開催都市に選ばれ、フリッツ・バルタースタジアムで日豪戦を含め合計5試合が行われましました。

文京の由来
 区名案を東京新聞が募集したところ、春日・湯島・富士見・音羽・山手などがあったが決定を見ませんでした。偶然小石川区の職員案の中に「文京」があり、本郷区の統合交渉委員会に提案したところ、 両区の特徴が端的に表現されていて文字も書きやすいことから新区名として決定しました。昭和22年3 月5日公布、同年3月15日施行。
 水戸藩邸で『大日本史』が編まれ、孔子廟(湯島聖堂)・桜峯塾(昌平黌/師範学校→東京師範学 校→東京高等師範学校・東京文理大学→東京教育大学→廃学/筑波大学新設)・帝国大学(東京大学) ・吉祥寺栴檀林(駒沢大学)・台湾協会学校(東洋協会専門学校→拓殖大学)・女子高等師範学校(御 茶ノ水女子大)・日本女子大学校(日本女子大学)・跡見女学校(跡見女子大学)・香蘭女学校(品 川区に移転)、日本女学校(相模女子大)など学校の多い文教区で、江戸時代から多くの文人墨客が 足跡を残してきた。その歴史からして「文化の京」と名づけるにふさわしかろう。落ち着くところに 落ち着いた観のある名です。

■区歌「ああ大江戸の昔より」 作詞・佐藤春夫  作曲・弘田龍太郎
  1.あゝ大江戸の昔より
    ここは学びの土地にして
    紅の塵 近けれど
    緑の丘は静かなり
    書(ふみ)よむ窓の多(さわ)なれば
    家 自(おの)ずから品位あり
    都は文化の中心地
    わが区は都の文京区
  2.今 新時代(あらたよ)の朝 未明(あさまだき)
    自由民主の鐘の音に
    人は巷に迷へども
    我等が隣安らへり
    物知る人の多(さわ)なれば
    町 自ずから平和あり
    都は文化の中心地
    わが区は都の文京区

■区の木 イチョウ・区の花 ツツジ
 区民と区との緑化活動のシンボルとして、区の木を「イチョウ」、区の花を「ツツジ」と定めた。 これは、昭和49年9月から12月にかけて公募したものから、文京区にふさわしく、既に多く植えてあり、今後の植栽にも適していることなどを基準として、選定委員会を開いて決めたものです。決して区職員の独走によるものではありません。

■五大花まつり
 うめまつり   メイン会場 湯島神社
 さくらまつり  メイン会場 播磨坂
 つつじまつり  メイン会場 根津神社
 あじさいまつり メイン会場 白山神社
 きくまつり   メイン会場 湯島神社

 ●江戸川(神田川中流)
 七ツ井(井の頭池)から出て江戸に向かって流れたのでその名で呼ばれていますが、徳川氏の入国以前に も江戸川だったのか、何処まで江戸川だったのか、また違うならどう呼んでいたのかが判りません。それほど人が住んでいたとも思われないので名前はなかったかな? 古川という名があるが、新川があって古川な訳ですが、古川は神田上水が出来てからの神田上水上流の呼称ではないのでしょうか? 川は船河 原橋から新小川町の辺りにあった巨大な白鳥池に流れ込んで終わりました。「平川」は白鳥池からの流れです。だから江戸川は平川の上流でもあます。家康の江戸御討ち入りにより飲料水の川とされてから「神田上水」と呼ばれ、昭和40年の河川法で「神田川」に統一されましました。江戸時代神田上水の下流は関口 (洗堰)で上水が素堀(しらぼり)となって水道橋の方に向かうので、外濠に向かう2.2キロの流れ 江戸川といいました。この川は「御留川」つまり禁漁禁泳の川で、船河原橋のところに堰が築かれ、それを越えて外濠に落ちた魚は釣ってもよかったので、船河原橋は終日釣り客で賑わったといいます。堰から落ちる水はさながら滝の如くあり、瀑音轟いて「ドンドン」の俗称がありました。

 島崎藤村の江戸川の景。
    水静かなる江戸川の
    流れの岸にうまれいで
    岸の桜の花影に
    われは処女となりにけり
    ひとりの姉をうしないて
    大宮内の門を出て
    けふ江戸川に来て見れば
    秋はさみしきながめかな
    桜の霜葉黄に落ちて
    ゆきてかえらぬ江戸川や
    流れゆく水静にて
    あゆみは遅きわかおもひ

 東京と千葉の境の川も江戸川といいますが、これも江戸に向かう川の意。その前は利根川で、更にその以前は太日川といっていました。古東京湾が利根川の吐く土砂が堆積して陸地化し、その課程で低地となって 水が流れたものの一部で、初め利根川は隅田川でしたが、利根川は陸地の活用のため次第に東遷、古利根川を流れ、中川に移り、太日川に移り、現在の利根川は徳川家康の命令により、常陸川に付け替えられたものです。
 荒川は初め東流して利根川に流れ込んでいましたが、その名の通り暴れ川で、農業の安定のために川越で付け替えられ入間川に流し替えられましました。入間川の下流は元利根川である隅田川でそれで昭和40年 河川法で隅田川になるまで、隅田川の本名は荒川だった。荒川放水路を新しい荒川としたためで、荒川放水路を開鑿したことにより、入間川は新河岸川と改名しました。

 ●神田川
 江戸川と外濠が合流するドンドン(船河原橋)から下流、御茶ノ水、柳原を経て隅田川に落ちるまでの川。現在は井の頭池からの全川の正式名称。江戸時代以前にはこの名の川はありませんでした。あったと すれば今の日本橋川が改修される以前、小流であった頃そう呼ばれたかも知れません。 当時江戸湾や 日比谷入江には紅葉川・弦巻川・平川・谷端川・谷田川(旧石神井川)・千鳥が淵の川・桜川の水などが流れ込んでいました。これでは大雨になれば江戸は常に洪水にさらされます。無論それまでもしばしば 洪水に見舞われましたが、当時の集落はポイントであり、高みに寄ればまあ何とか凌ぐことはできました。城下町が面となれば為政者として治山治水は必須の事柄、幕府は大水を避ける必要に迫られます。それが伊達家に掘らせた北面の外濠川だ。これは本郷台地先端の神田山を東西に切り通し、横山村と浅草村の間を流れていた小流浅草川に繋ぐもので、悪戦苦闘して神田山を切り通したので「神田川」と名づ けられましました。

   仙台堀というべきを神田川(川柳)

 江戸へ流れ込むべき紅葉川・谷端川・弦巻川・谷田川の水はみんな神田川を通って隅田川に流れ、 谷田川(石神井川)が断ち切られたために、下流部は東西の堀留川になった。神田小川町の名となりました。小川もこの時に消滅しました。
 「神田上水」というのは関口の堰口から素堀となって万年樋(水道橋)江戸市中に地下水道として 配った上水道のこと。関口から上流の江戸川または井の頭川もそう呼んでいました。

   神田川跨いで通る井の頭(川柳)
   江戸中をのたくりまわる井の頭(川柳)


youtubeに載っている『文京(区)のうた』
作詞・作曲 白井ヴィンセント
演奏 ヴィンセント&THE暗黒MEN