『文京の町・今昔』8

〜白山旧花街・消えたお不動さん〜
 白山火伏不動尊が、あっという間に取り壊されたのは、今年の春先のことだった。社殿は解体され、更地になっている。
 お不動さんは、旧三業地のど真ん中に位置し、すぐ隣りには検番があった。昔から町方の信仰対象として不動尊は人気がある。しかし、ここは文京区内でも知る人は少なく、参詣者はめったにいない。それでも花街が賑わっていた頃は、縁起をかつぐ水商売の人たちには、守り本尊として有り難がられていた。
 お社に隣り合わせて立っていた一人の男の銅像も同時に撤去された。誇らしげに辺りを睥睨していた像の主は、秋本平十郎(敬称略)という。彼は白山三業を開いた創設者の息子であり、花街を支配する実力者、また、この界隈の大地主でもあった。彼が建立した火伏不動尊が取り壊された理由は、その敷地建物が競売に付されたことによる。

 昭和35年の晩春の一日、私は初めて訪れたこの町をぶらぶら歩いていた。世は安保闘争で騒然としていて、樺美智子さんが犠牲になったというニュースが流れ、いささか興奮気味だった。この一帯が花柳界だということは知っていた。なるほど、それらしき風物や情緒が、あちこちに散見できる。長々と連らなる黒板塀、入りくんだ路地と石畳の歩道、芝居の書割をしのばせる置き屋のたたずまい。
 花街特有の粋な風情にひたりながら、のんびりと散歩を愉しむことが出来た。しかし、この町にやってきた目的は別にあった。親父が同じ文京区内の動坂で営んでいる不動産屋の支店を設けるための空店舗を下見して、それが適当なものかどうかを確かめることだった。お目当ての小さな物件は、都電の停留所「指ヶ谷町」の近くにあった。27歳、結婚を控えながら、ずっと続けていた映画放送関係の仕事が途切れていて、遊んでいるのも体裁が悪く、余り気が進まなかったが、貸間の斡旋でもしてお茶を濁そうかなどとお気楽なことを考えていた。  白山で店を開いたのは、それから間もなく、柄にもない不動産屋として第一歩を踏み出すことになる。一時しのぎの商売のはずが以後45年、いまだに延々と続いているのだから、瓢箪から出た駒のおかげだろう。

 友人のS君から、珍しい本を見つけたので参考になれば、と数枚のコピーが送られてきたのは、今年の5月中旬だった。加藤政洋著『花街・異空間の都市史』から、文京区白山にいかにして花街が誕生したかをドキュメント風に綴った部分を抜き出したもので、なかなか興味のもてる資料だった。加藤は書いている――
 「指ヶ谷町の一画に白山花街が誕生したのは、明治45年だった。明治40年代8回にもわたって土地発展のためとして、三業地の指定を警視庁に願い出た人物がいて、それが秋本平十郎の父、鉄五郎だった。地元の繁盛する料理屋を経営していた彼は、「酒席の興にそえるには芸妓がいなくてはならぬ」と思いたち、鳩山和夫(一郎の父、威一郎の祖父)や地元選出の市会、区会議員など政治家の支援を受けて、設置運動を行った。馬車に乗り遅れまいと花街の創設を見越した者たちが続々と寄り集い、矢取女という私娼を置いた揚弓店、酒よりも女色を売り物にした銘酒店、料理店などを先を争って開き、白山はお色気が充満した盛り場に変身した。そして明治45年、期待通り花街開設指定地の許可が下りる。鉄五郎は手廻しよく三業組合を組織し、念願の花街の門出がここに実現した。」
 鉄五郎のあとを継いで花街を取り仕切り、飛躍的に発展させたのが平十郎だった。彼の著作『白山三業沿革史』には、この町の変遷、樋口一葉が「にごり江」で描いた違法の私娼窟の溜まり場から、徳田秋声が愛した「縮図」の舞台、合法の花街へと移り変わってゆく状況が、ありのままに写し出されている。市街としての成長も著しく、明治41年には市区改正で道路が拡がり、三業の指定を受けた明治45年には、市電が巣鴨まで開通している。
 この町に永く住むある古老は興味深い話を語ってくれた。
 「夕どきになると、三業の中は押しかけた遊客で芋を洗うようにごった返していたよ。芸妓の数も300人じゃきかなかった。白山のお姐さんはモダン芸者と呼ばれてね、時代の先端を行く心意気があったものさ。ここの三業の強味は、暖簾の新しさを逆手にとったことでね、花柳界は伝統としきたりを重んじているが、そんな因習にはかかわらずに簡単、気軽に遊べる花街を作り出したことが人気を呼んだ原因だろう。一見さんお断りなんぞという堅苦しい客扱いはやめて、さっと来ればさっと遊べる気楽さが、お客さんに受けたってことかね。いい時代だったよ。
 ただね、白山三業が大賑わいしたのも、それほど長くはなかったな。戦後は、もっと安直に遊べるキャバレーやクラブに客をとられ、芸者置屋、待合、料亭も一軒、二軒と姿を消し、ついには検番を売りとばす羽目になって、花街はご臨終を迎えたんだよ。」
 売られた検番の代金は、廃業する三業の組合員に分配されたらしい。跡地には、四軒の棟割長屋が新しく建てられ、居酒屋、惣菜屋、喫茶店などが入居している。不思議なご縁でその真向かいに私の事務所がある。
 平成18年、火伏不動尊の取り壊しと創始者の銅像の撤去で、白山花街は何も彼もが消滅し、終焉した。明治45年の誕生から一世紀余の時が流れ過ぎている。しかし、寿命の長い花柳界の生涯としては、最も短い部類に属するだろう。指ヶ谷の地に三業を苦労して作りあげた銅像の主にとって、ここは、うたかたの町であったのかもしれない。大地主として所有していた彼の土地は、借地権者に切り売りされ、ほとんどが人手に渡っている。栄枯盛衰は世の倣いとはいえ、お不動さまの猫の額ほどの敷地までがいとも簡単に他人に取られるとは、白山三業のカリスマにとって、思いもかけなかったことに違いない。

(文京区支部報 平成18年7月=555号)

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