エッセイ

連載「音楽と私」 番外編その(1)
「TUVE」誕生の裏話

脇坂元博
東地区4班
株式会社脇坂不動産共報会

遡ること2011年のとある日、古いバンド仲間から「俺の友人が結婚するそうで、その披露宴で歌ってくれないか?ってオファーがあったの。ワッキーの予定が空いてたら一緒に演奏しない?」って言われ、快諾したのがTUVEの始まりでした。
10年以上前、彼とは一緒にTUBEの楽曲を演奏するバンドを結成していて、3回ほどワンマンライブをやった仲間。当時、彼はヴォーカルを担当していました。
彼は、ライブパフォーマンスが優れていて、観客を盛り上げるのを得意としているので、面白い計画を立てたのです。
私は彼に対し「昔はコピーバンドだったでしょ。あんなの、ライブ演奏というよりTUBEの音楽を好きな人が集まってお祭り騒ぎしてるだけだった。それじゃー、自己満足だし面白くないよ。私のJazz Fusion仲間を招集するから、演奏技術力を最大限に高めて〈トリビュートバンド〉を結成しようよ!」と提案したところ、彼は「トリビュートって何だい?」と聞いてきました。私は「演奏力を重視しながらアーティストの楽曲の良さを観客に聞いてもらって、アーティストの楽曲をアピールする非公認広報活動のような感じかなー」とわかりやすく説明したところ、「楽しそうだね♪ 是非やってみようよ」という言葉をきっかけに、バンド名も悩んで考えた「TUVE」が誕生したのです。
披露宴での演奏が盛大に終わり、数ヶ月経過したころ、コーラスを担当している彼女から、「私 の知り合いのイベンターから三浦海岸で演奏す るオファーがあるけどやってみる?」と言われたのをきっかけに、他のトリビュートバンドの方々 や、イベンター会社、広告会社の関係者が 「TUVE」の事を知っていただき、イベントのオ ファーをもらう事に成功していきました。次号では、今年8月にオファーをいただいたライブの模様を掲載します。

【過去の活動履歴】
2012年8月 三浦海岸LIVE(World Beer Coast)
2013年1月 第3回邦楽トリバンフェスティバル(クラブチッタ川崎)
2013年5月 湘南Sound Festival(テラスモール湘南)
2013年8月 Citta’の夏祭り川崎(LA CITTADELLA野外広場)
2013年10月 Autumn Summer2013(主催企画ライブ)
2014年2月 第4回邦楽トリバンフェスティバル(クラブチッタ川崎)
2014年7月 中村哲也氏 結婚披露宴パーティー(沖縄サムシングフォー西崎)
2014年8月 Summer Festa(新宿野村ビル特設野外ステージ)

連載「音楽と私」 最終回 「記憶に残るライブ」

南地区4班 綱島正寛 株式会社ツナシマ

長いこと音楽とのつながりを書いてきました。その最後に「記憶に残る演奏は?」と聞かれたら、迷わず平成20年9月3日、帝国ホテル“富士の間”における演奏と答えます。それは全く予期せぬ出来事があっての演奏でした。
私の岳父は戦後復興の象徴と言える「アメ横」から事業を立ち上げた言わば立志伝中の男でした。若かった20 ~ 30歳代の我武者羅に生きた過去を振り返り、晩年「私の生きざまを若い人に少しでも知ってもらいたい!」との気持ちで半生を記した自叙伝を出版致しました。出版に際し「この自叙伝の出版記念を帝国ホテルで開きたい」と言い出し、私は裏方として奔走することになりました。ご招待客のリストアップに始まり、当日の席順まで連日打ち合わせや調整に追われました。父も自分にとっては最後の催事となるかも知れない、との思いで数少なくなった戦友や趣味の仲間にご招待状を届けるため9月の残暑の中をかけずり回りました。
しかし、90歳を超えた老体にはやはり無理が祟り体調を崩し、パーティー前日に入院しなければならい事態が発生してしまいました。本人不在の出版記念パーティーは延期もキャンセルも出来ません。裏方としては“万事休す”の心境でした。
司会を頼んだ友人に相談致しました。友人が一言、「これはPolestarの出番ですね!」。これで決まりました。緊急連絡がポールスターの面々に届きました。事情も分からないままに帝国ホテルに集合がかかりました。遠く旭川から駆けつけてくれたメンバーもおります。宴会場では何か普段の“出版記念パーティー”と違和感があると感じていたご来場者が演奏が始まりステージの緞帳が上がり歓声とも驚きとも言えない声が広がりました。
「何だ!これは!」「婿殿も演奏するのか!」「おー」「ヤー」の声が耳に入りました。500人からのご招待者が誰一人本人不在の不満を口にされた方はおられませんでした。絶対絶命のピンチを救ってくれたのは他ならぬ“BIG BAND Polestar”のメンバーでした。
素人の音楽仲間とは申せ、金銭ではない人間として本当の付き合いを心に刻んだ瞬間でした。仲間でも「帝国ホテルのライブは計画して出来るものではない」という思いは今でも続いています。
音楽は道楽には成り得ません。趣味が高じて家計の崩壊もありません。音楽に必要なのは「健全な精神」と「健全な肉体」なのです。
-完-

連載「音楽と私」 その11「町おこしに思う」

南地区4班 綱島正寛 株式会社ツナシマ
 なにか世の中がおかしいと感じはじめた頃、リーマンショックが日本を襲い、経済がデフレスパイラルの悪循環に陥ったのが2008年でした。このままでは日本発の大恐慌すら考えねば……などと重苦しい雰囲気が身近に感じたものです。「これはいけない」と地元湯島の友人となんとか明るい雰囲気を取り戻したいと、町おこしを考えました。地元湯島と本郷の町おこし、名づけて『湯島・本郷町おこし YUHOの会』がスタートしたのが平成8年の秋でした。
 ひと口に「町おこし」と言っても、その考え方や進め方は千差万別。何を目的に誰に向かって何を、何時行うのか、これをまとめるまでが大変でした。資金、マンパワー、支援企業、アイデアなど何も無いスタートでした。喧々諤々意見を交わす中で、地元湯島・本郷を明るく、誰もが訪れたいと感ずるには「音楽」と「歴史」で町に元気を出させるのが良いという結論に達しました。湯島・本郷の歴史を学び、地元に縁が有る人による音楽演奏会をイベントとして開催しようということになりました。クラシック、JAZZ、二胡、創作ダンスなどを湯島聖堂の境内(大成殿)でイベントとしてライブ演奏する企画を立てました。無論、音楽イベントのみならず、町を散策し、町の歴史教室も開講しました。
 何と言っても音楽イベントは人気を集め、回を重ねるたびにファンは増え続けました。11月3日の文化の日、湯島聖堂の回廊にはさまざまな楽器の音色が響き渡りました。シビック大ホールで毎年定期コンサートを開催する「東京ジュニアオーケストラ ソサエティ」、古典音楽の第一人者坂田進先生の「二胡独奏」、創作ダンスと音楽の「YOU CAN」や地元の江戸囃子「湯島はやし連」、そしてJAZZ BIG BAND「Polestar」などがイベントを盛り上げたものです。
 企画から始まり、渉外、記録、広告、資金調達、会場設営、進行に至るまで僅か6、7名の限られた陣容で5年間続けてきました。続けられた要因はなにか? それは言うまでもない「音楽」の存在です。決してお金の為とも言えないこの「町おこし」を当初から5年は続けようとスタートして、本当は若い人にバトンタッチしたかった。残念なことに、今時の若者にこうした想いを継承しようといった意気込みが失せてしまった事を残念に思う。この町おこしがいつかまたの日に復活してくれる事を夢見ています。
 この町おこしを共に悩み、共に創り、共に歩んだ日管設備の富永秀実氏が本年3月13日に急逝されました。私にとっては痛恨の極みです。

連載「音楽と私」その10「ふたりのラジオ・パーソナリティ」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ

 昭和42年頃から始まったラジオの深夜放送がある。“ミスター・ロンリー”の曲に乗って「遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休めるとき、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は……」、この城達也のナレーションにどれだけ慰められたか知れない。時代は高度成経済成長の真っ只中、駆け出しのサラリーマンがFM東京の『JALJETSTREAM』なる音楽番組から発せられるあのカーメンキャバレロやアルフレッドハウゼやポール・モーリアが奏でる名曲にどれだけ癒されたことだろうか。
 それから半世紀近く経過した今年の正月、さっぱり購買意欲を駆り立てないTVショッピングを見るでもなくぼんやりながめていると、『あの機長“城達也”がご案内する「JETSTREAM」への旅を再び貴方に!』の言葉に一瞬目と耳が硬直した。「あの時の感動や心の清涼剤が再び味わえるのか!」と思うと次の瞬間、“通販受付電話”に申し込みをしていた。
 アップテンポでボリューム一杯の電子音ではなく、全身に沁み入るあの頃のメロディに私の身体は乾ききっているのかも知れないと感じた。全235曲のCDが届くのを待ちわびて正月をすごした。
 CD到着後、むさぼるように聞き入った。城達也のナレーションが出だしと巻末にあり、いやでもその雰囲気を感じられる。しかし昔と違うと感じたこともある。この全収録235曲の中に苦労しながらもMyBigBand“ThePolestar”での演奏曲が多いことに気が付いた。「愛の讃歌」「イン・ザ・ムード」「オリーブの首飾り」「枯葉」「黒いオルフェ」「煙が目にしみる」「ゴッドファーザー愛のテーマ」「サマータイム」「シバの女王」「白い恋人たち」「時の過ぎ行くままに」「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」「ヘイ・ジュード」「星に願いを」「ムーンライトセレナーデ」などなど。
 この半世紀にならんとする間に自分自身にどんな変化があったのだろうかと考えを巡らせた。おそらくこの城達也のラジオ放送から私の音楽の世界との縁が始まり熟成したのだろうと自分なりに納得している。
 ここでもうひとりのラジオ・パーソナリティに触れておく必要がある。その名は滝良子、通称“そらまめ”さんだ。正直、私自身はこの人のラジオ放送を生で聞いたことはない。この時代、私がJALの“城達也派”だとすれば、ANAの“滝良子派”が存在したのだという。ニッポン放送のラジオアナなのだそうで、城達也の全盛期に「全日空スカイミュージックホリデー」なる番組があったのだという。
 どちらかといえばジャパンポップスが主体の音楽番組で、当時の売れっ子の森山良子やイルカ、松任谷由美などをゲストに招いて、女性の視点からの軽妙なトークに人気があったのだという。このことを知ったのは、実はそんなに昔ではない。私の母校、旭川西高の同期会が開かれたとき、クラスメートからこう言われた。
 「あら、綱島さん知らなかったの? あのニッポン放送の“そらまめ”さんて、クラスメートの滝沢良子さんよ!」。知らないということは恐ろしいもので、以来周囲に“あこがれのお姉さんだった”というファンが意外に多いことに驚いた。

連載「音楽と私」その9「長寿社会と音楽」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ

古希の歳を迎えて長寿社会に思うことがある。もしかすると「音楽」は長寿社会の“リトマス試験紙”ではあるまいか?ということだ。
世界に冠たる長寿社会の日本ではあるが、はたして喜んでばかりいてよいのであろうかと思う。年々増加の一途をたどる孤独死、老々介護、そして崩壊寸前の年金保険制度や医療保険制度などなどだ。
長生きするというだけで良いのではない。これからはいかに老後の課題を回避して、自らを律して生きて行かなければならないということだ。
「音楽」と接することにより五感の機能、そして指、手、足、腰などの筋力や脳神経系の老化を明らかに防止する。音楽はこうした身体的機能を総動員してはじめて曲作りや、演奏が可能となる。
長寿社会を生き抜くための身体的能力を薬やサプリメントに依存することではない。私の場合の「音楽」に自分自身の肉体的限界やその日のコンディションを知る上での言わば“リトマス試験紙”的役回りと考えている。
楽器には金管楽器、木管楽器、弦楽器、打楽器などで、それぞれの分野には細かく楽器が分類されている。私は木管楽器のフルートとバリトンサックスとの縁が続いている。
フルートなどはアルコールの影響で舌や唇がしっかり形作ることができないことを最も毛嫌いする。
バリトンサックスは音楽全体のイメージを捉える精神の安定が必要な楽器です。今日は「音が出ない」「リズムが取れない」「コミュニケーションが取れない」、そして何よりも「気が乗らない」などの兆候は自己診断し、それを調整することは可能なのです。
新春から日経新聞の【私の履歴書】は世界的指揮者小澤征爾氏の連載が始まりました。その小澤征爾氏の寄稿文に「音楽家は忘れることが大事なのです」とある。勿論世界的指揮者の言う「忘れる大事さ」と、単なる音楽愛好家と同じ意味で捉える必要はない。しかし、小澤征爾氏の場合、ひとつの演奏会を終えると次のコンサートのために今終えた演奏曲を忘れなければ次に備えることが出来ないというのだ。私の場合は、新曲を作り上げることや、ライブ演奏をこなす時、仕事や日頃のプレッシャーから解放されなければうまく行かない。
つまり小澤征爾氏の音楽を忘れることと私が日常業務のストレスから開放されることとは同じ次元と捉えることができる。小澤征爾氏にとっての「音楽」は、癌を克服し、80歳を超える、さらに活躍できるかどうかの「リトマス試験紙」の反応に注目したい。

連載「音楽と私」 その8「JAZZ演奏に思う」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
 演奏会で「目指すジャンルは“スイングJAZZ”です!」などと言って我が「Polestar」をMCが紹介します。軽い気持で口にするこの「JAZZ」とは何か、正直あまり詳しくもないし、知る必要性もあまり感じない。しかし「JAZZ」には歴史も理論も人物も絡んでいることはたしかです。グレンミラーもサッチモもJAZZの歴史から言えばほんの一握りの登場人物に過ぎないのです。
 19C末から20Cの初頭、アメリカ南部都市を中心に派生した音楽形式に、やがてアフリカ系アメリカ人のリズム感覚と西洋楽器を用い高度な音楽の理論と技術を融合させたのがJAZZと言われています。
 その「JAZZ」の語源はといえば諸説があります。スラングで女性性器JASS(性行為)からきたとか、売春宿をJASS HOUSEと呼び、その売春宿の待合室や酒場を主な活動拠点としていた音楽家をJASS BANDと呼ん だことが「JAZZ」の語源となった説もあります。
 かつてアメリカにはビッグ バンドを率いるあこがれのミュージシャンは数多くいました。ジャズ全盛の時代にはグレンミラー、ベニーグッドマン、ハリージェイムス、デビッドマシューズ、ペギーリーなどです。
 戦後日本にもBIG BANDは無数に活躍していました。ラジオ・テレビの普及に伴い、あらゆるジャンルの音楽を日本流にアレンジしたBIG BANDのメロデイ―が生演奏で聞けたものでした。「有馬徹とノーチェックバーナー」「小野満とミックスブラザース」「鈴木章二とリズムエース」「スマイリー小原とスカイライナーズ」「ダン池田とニューブリード」「チャーリー石黒と東京パンチョス」「原信夫とシャープス&フラット」「森寿男とブルーコーツ」などなど、バンドのリズムを耳にしない日はありませんでした。それだけではなく、全国どこのダンスホール、キャバレー、ライブハウスに行っても、生演奏を聞くことが出来たのです。 
 今や音楽の世界ですら効率、一人当たりの生産性、IT化の時代に入りました。BIG BANDはとてもコスト高で維持することが難しい時代になのです。「Polestar」が演奏するプログラムには必ず組み入れる曲があります。「東京ナイトクラブ」「つぐない」「北の宿から」「津軽海峡冬景色」「北国の春」「川は流れる」。30 ~ 40年前、いつも身近に居たあのBIG BANDを思い出す後期高齢者の笑顔が、いつも救いとなってくれます。
 この夏、「BIG BAND FESTVAL 2013」Vo.15 がシビックセンターで開催されました。シビック大ホールが、駆けつけた高齢者でぎっしり埋め尽くされていたことに、今更ながら驚かされました。

連載「音楽と私」 その7 「その費用と効果」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
 音楽に接しながら、つくづくプロではなく趣味の世界で良かったと思う。おそらくプロの世界ではおよそこんな楽しい気持を抱くことは無かっただろうと思う。しかし、いくらアマチュアの世界の話とは言っても、その分野により投下すべき資金は随分違うものです。書、絵画、陶芸、写真、料理、旅行、俳諧、ゴルフなど、その世界は無限です。しかも、それぞれの分野には異なる条件が付きまといます。時間、場所、材料、道具、人間関係など、極めれば極めるほど資金を投下しなければなりません。その点、音楽は実に安上がりな趣味と言ってよいのではないかと思っています。
 たしかに種類によっては何百万円、いや億を超える楽器もあります。しかし、趣味の世界にはおよそそれは無縁な話です。音楽以外の趣味の世界を極めようと思えば、それは“道楽”の世界と言います。そこまでいくと個人的感性にこだわる材料、道具、時間、場所にこだわらなければなりません。しかし音楽の、しかもBIGBAND について言えば、極めていけば「是非演奏して下さい。些少ではありますが交通費程度はお支払します!」と、資金投下ではなく多少なりお金が入るわけです。しいて必要なコストは何かと考えると「場所」の確保に尽きます。個人練習は各自がやっての前提でバンドメンバーが週1回練習に集まって曲作りをする“練習場”が必要なのです。幸い私のBIG BANDは文京区の社会教育団体の指定を受け、区の施設(アカデミー文京)を安く借りられる条件にも恵まれ、およそ投下するほどの資金は必要ないのです。
 楽器にはさまざまな種類があります。音楽に親しむにつれ、自らの健康維持には欠かせない活動であることを感じて来ました。音楽には避けて通ることの出来ない要素に、脳と密接な動きを必要とする腕、手、指、足、口、それを確認する目、耳の働きが欠かせません。さらに管楽器の場合、横隔膜、肺、気管、鼻、歯、舌など、すべての器官を駆逐してひとつの音を作り出します。この呼吸器系の臓器、つまり肺機能は腹式呼吸などにより、酸素を確実に体内に取り入れることが出来るようになります。人間の身体にとって常に鮮度の良い酸素を取り入れることがどれ程大切なことか、実は病で入院しながら身をもって感じたこともあります。日頃から楽器をいじりながら同時に深呼吸する習慣が、病気に対する回復力を大きく左右するのです。
 楽器は消耗品ではあります。永久に使える訳では有りません。それでも大事に使えば20年、30年使えるものです。今年に入りフルートもバリトンサックスも買い替えました。フルートは一部銀製からオールプラチナへ、台湾製のバリトンサックスから日本のトップメーカー製に買い換えたのです。この楽器を見つめて「これが自分の人生最後まで付き合ってくれる楽器か!」と思うと、むしょうに愛おしく思えたりします。
 「楽器は高いものではない」と改めて確信したのです。

連載「音楽と私」 その6 「忘れられない男」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
 BIG BAND「Polestar」も人間集団であるだけに悲喜交々、さまざまな思い出があります。ポールスター、その中に忘れてはならない人物
がいました。柏川守君。3年前の秋「俺、もっとビッグバンド続けたかったなあ…!」と最後につぶやいて62歳の若さで他界した。
 柏川君は高校の後輩で、音楽には興味津々ながら先輩の音楽集団に顔を出すには抵抗感があったという。よく聞くと、専門の農業技術の指導員としてブラジルに滞在したこともあり、そこでサンバやルンバ、タンゴのリズム感を磨いたという。「楽器を持っていないのでどなたかトランペットをお借りできませんか?」と言ってメンバーの一員なった。私の息子が放り出していたトランペットを「使ってみますか?」と渡すと、水を得た魚とでもいうかのように、狂ったように音楽に浸ってしまった。
 「Polestarにはトロンボーンがいない!」と誰かが言うと早速、「私がトロンボーンやります!」とトロンボーンを購入し、個人レッスンを受け、瞬く間に「Polestarの正トロンボーン奏者」としてそのポジションをしめた。
 学生時代は応援団長とかで、よく通る美声の持ち主でライブではトロンボーンを片手にMCの担当もこなした。ジャズの歴史、ジャズ奏者のプロフィール、曲の背景を巧妙なトークで観客を魅了していた。
 ある日「実は来月から旭川の木工メーカーから社長を引き受けて欲しいという声が掛かり、受けることにしました。しかし、このPolestarの音楽活動は今まで通り続けますのでご心配なく!」と話し、毎回の練習にはいつもの通り、あたり前の顔をしてトロンボーンを抱えて旭川─東京間を往復するようになった。
 ほどなく「私が旭川滞在中に母校、旭川西高創立100周年記念祝賀会があります。私が100周年記念式典実行委員会に交渉してきますから、是非母校の創立100周年記念祝賀会で Polestar による校歌演奏を実現しましょう!」とE-mailがメンバーに配信されて来た。
 東京のメンバーは「こんな事、実現できるの?」と思わず見つめ会うだけだった。なんと言ってもメンバーの時間調整、遠征費用、現地の宿泊、楽器の移動などを考えても実現できるとは思えなかった。柏川君が旭川のイオンと「ジャズ ビッグバンド Polestar のライブ演奏」の売り込みに成功し、最も大きな課題である費用問題を解決し、2007年9月、母校の100周年記念ライブも実現してしまった。
 2010年秋、東北地方を大震災が襲う1年前、岩手県盛岡市のイオンモール特設スタジオに体調を崩した柏川君の姿がありました。日帰りのスケジュールは身体に応えたと思うが、最後の演奏と魅力ある低音で盛岡市民にジャズの楽しさを伝えておりました。この時のCDを聴くにつけ、もう少し楽しんで貰いたかったと心底思い出す。
Jazzband
在りし日の柏川氏(手前)。イオン柏店での演奏会で(平成18年)

連載「音楽と私」その5「舞台裏の話」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
 私にとって音楽活動は楽しみであり、しんどい事の連続でもあります。
 どんな趣味の世界でも、さりげなく表現できるのは、それまでの長い積み重ねがものを言います。水鳥の水面下の水掻きがあってこその優雅さと同じです。
 BIG BAND「Pole Star」のメンバーにはそれぞれの役目があります。もっぱら譜面の入手やアレンジに専念する人、ライブ演奏を売り込む人、少ない予算をやりくりする人、スケジュールを管理する人、練習会場を確保する人、譜面台を製作する人、ITを使いネットワークをつくり上げる人と、誰一人として無用な人は居ないのです。私はと言えば長く機材運搬係りがその役どころでした。
 私の場合、担当がバリトンサックスだけに、とても抱えての電車の移動はしんどい。車に積んで会場に駆けつけると、「綱島さん! 私の楽器とアンプも一緒にたのむ!」と、いつしか、あれもこれも機材一式を運ぶ運送係りが暗黙の了解事項となってしまったのです。
 幸か不幸かBIG BANDは金管楽器主体。加えてドラムやエレキギター、ベースが加わり、スピーカーやアンプ類まで搬送しなければならない。素人とは言え、「BIG BAND」ともなれば形やスタイルにもこだわります。
 舞台裏の運送係りとしては、関東近県のライブ会場には車で搬送しなければなりません。安全に機材を運びそして絶対、時間を守る責任を負わされます。やがて楽器などの重さに耐えかね、乗用車のスプリングもサスペンションもすっかり伸び切って、ちょっとした段差で車のお腹を引き摺り、廃車を余儀なくされました。
 そんな折、海外で勤務することになった友人が「私のワゴン車を良かったら暫らく使ってくれませんか?」と相談があり、渡りに舟とばかりに、メンバーの熱い期待に応えて借りる事となった。ワゴン車を借り始めたのが平成18年。友人が帰国までの約束で、「BIG BAND 運送係り」の役割は6年ほど続きました。
 ライブ演奏はせいぜい1ステージ30分から60分程度。その演奏のために費する練習時間は膨大だ。年に7、8回の演奏に備え、重いバリトンサックスを抱え練習場に駆けつけ、ほぼ毎週のように新曲づくりに没頭しなければならず、おかげで日曜日のほとんどはつぶれます。お蔭でサンデーゴルフも「綱島は誘ってもダメ!」と、今では声すら掛からない。 趣味とは申せ、年に7、8回地方を含めライブ活動を続けることは楽ではない。
 新潟、盛岡、仙台などで日帰り演奏をする事もある。老いも若きもこんな時は何故か気持が高揚するものです。2ステージを終え、帰路の新幹線で深い眠りに落ちる快感は格別です。翌日、何も無かったかの如く淡々と仕事を続けることが、この趣味の醍醐味といえます。
《続く》

連載「音楽と私」その4「BIGBANDポールスター」の誕生

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
一人の男の登場により目の前の音楽環境が一変してしまった。
私の学年で言えば3年先輩の藤原博さんが、ヨチヨチ歩きの音楽仲間に参加したのが平成9年。今から16年前のことでした。
平成8年、恵比寿ガーデンプレイスのビアホールで初めてのライブ演奏デビューの翌年、同窓会で「藤原さん一緒に音楽やりませんか?」の誘いに、「メンバーに入ってもいいよ!」と気軽に返事をくれた。
最初の練習日にはクラリネットとアルト・サックスを抱えて参加し、なにやら聞き覚えのある曲を一人で軽く吹いてくれた。「次はサックスで行くね!」と、またもや聞き覚えの有る曲を聞かせてくれた。
「最初はムーンライト・セレナーデ、2曲目はA列車で行こう」
これまで自分の気持の中で描いていた音楽の世界との違いに、明らかなカルチャーショックを覚えた。聞けば藤原さんは高校の吹奏楽部、大学のオーケストラ、そして今では市民オーケストラのリーダーだという。本業は国立感染症研究所のれっきとした研究者で医学博士。この人こそが私を単なる楽器愛好家からビッグバンドの一員に導いてくれた恩人とでも言うべきか、伝道者といえます。
「フルートではバンドに向かないから、綱島さんはアルト・サックスにして下さい。指使いは殆どフルートと同じで、音はサックスの方がずっと出し易いので問題は有りません」などと問答無用の指示をいきなり言ってきた。
かろうじて指を覚え、なんとかリード楽器の音に馴染んだ頃、「このメンバーのサックスパートに足りないのはバリトン・サックスです。綱島さん悪いけれどバリサクに持ち替えてくれない?」
私は「何という横暴な事こと言って来るのだ!」と、この無理難題に反論する時間すら与えられなかった。
およそ楽器の中では最も軽量なフルートを選択したつもりでいたら、ビッグバンドの構成では最も重いバリトン・サックスに持ち変えることが、いかに重労働であるかを暫く後に思い知ることになる。
この藤原さんの人生の夢は「自前のビッグバンドを持ちたい!」だと、後日告白してくれた。その藤原さんの「夢」実現のお蔭でジャズ、ポップス、演歌、歌謡曲、クリスマスソング、スクリーンミュージックなど、期せずして音楽の世界に巻き込まれることになりました。
「せっかくだからこのBIGBANDのネーミングを決めよう!」ということになった。「俺たちは北国の旭川から流れてきた。しかし、いつも軸はぶれない北極星、そうだ!“ポールスター”で行こう!」
かくて紆余曲折しながらも『BIGBANDPolestar』が誕生した。時に平成9年3月29日、高輪プリンスホテルで産声を上げた。
《続く》