「エッセイ」カテゴリーアーカイブ

「キョウイク」と「キョウヨウ」を考える

退職後の男に必要なのは「教育」(今きょう日行いくところがある)と「教養」(今きょう日用よう事がある)─とシルバー川柳に詠まれる時代です。私は、この4月から代表権を息子に譲り、多少なりとも自由な時間を手にすることが出来ました。デスクも神田小川町に移しました。神田界隈には朝から同じような出で立ちの中高年男性が多いことに驚きました。ノーネクタイでスニーカーを履き、肩からショルダーバッグを下げ、ゆっくり歩く姿は明らかにサラリーマンと雰囲気を異にしています。神田の書店をのぞくと、さらにその密度は濃くなります。別段それが悪い訳でも、存在を否定する訳でもありません。むしろ今日この姿こそが高齢化社会で求められる生き方なのではないかと思います。
今年、日本人男性の平均寿命が80歳を超え、健康寿命が71歳とその差は9年の開きがあると言います。この9年の開きをいかに短縮できるかが日本の課題なのだと言います。社会保障制度に大きな不安がある以上、自らの老後を保障するのは自分自身です。朝から神田の書店を目指し、新しい情報や自分発見のヒントを求めて群れる日本男児が増え続けると思います。結果として健康寿命を引き上げることになれば、国家財政の改善に貢献できるのではないでしょうか。
翻って自らの姿をかえりみます。趣味の音楽や、ライフワークとしてのNPO活動に時間を費やすこともできるようになりました。若い人と抵抗感なく時間を共に出来ることに感謝の日々です。これはある日、突然可能となるのではなく、合間をみて、それなりに苦労した結果だろうと今は考えております。何かを始める時は偶然や自分の気持の高揚が最初のきっかけです。その小さなきっかけを、逃さなかったことが今日の環境をもたらしてくれたものと考えております。
無論、宅建文京区支部に入会したことにも感謝しなければなりません。バブル全盛期に入会し、鼻息の荒い先輩諸氏に圧倒されながら、失われた20年を駆け抜けました。その間、若い仲間との接点も出来、今日を支えていただける大きな財産となりました。支部報に寄稿文を依頼されることも「今日行くところ」、「今日用がある」ことに他なりません。
まだこれからの方々には「自分が思うほど人生は長くない!」を理解することは難しいかも知れません。日々の業務に全力投球し、支部活動に参加し そのうえで自分の世界を求めることをお勧め致します。

投稿ページ「私は海派」

山口巖(北地区3班/山口建設株式会社 代表取締役)

TVのコマーシャルじゃないですけど、今度の休み、遊びに行くなら“海に行く? それとも山に行く?”という質問には、私は“海派”です。そのルーツは、私の祖父が大変な釣り好きで、小学生の頃はよく一緒に海に行っていました。その後、大学に入学すると、体育会ヨット部に入部、年間100日以上の合宿をしてヨットレースをしていました。一般にヨットというと何となくお金持ちのスポーツというイメージでしょうが、学生が使うヨットは手漕ぎボートに2枚のセールがついたような船です。なので、風が強くなると、波が体の上を越えていくようなやつです。毎日、合宿所から備品をリヤカーに積んで 汚い恰好でハーバーに通うという、まったくイメージとは違うものでした。
学生時代に始めたヨットですが、卒業後も1人乗りのディンギー(小型ヨット)を買って、熱中して続けていました。しかし、結婚して2人目の子供が生まれた頃からは、そうもいかず、

ペースダウンしてしまいました。
その後50歳を過ぎたころからは、子育ても一段落して、また、時間にも余裕がでてきましたが、今度は体力的にちょっと厳しくなって、それ以降は、学生時代に取得した船舶免許をいかして、レンタルボートを操縦して友達と釣りに行っています。春から夏にかけてはキス、夏の間はアジやサバ、秋になるとカワハギ、寒い間はアマダイ(今年の総会で魚料理になっていたヤツです)というのが最近の1年のサイクルです。
釣りが大好きというよりは、船を気ままに走らせて海に出てボーっとして仲間とおしゃべりしているのが好きなのかもしれません。最近はこれが一番のリフレッシュ法かな?

 

第41回わんぱく相撲文京区大会にブースを出展

4月30日文京総合体育館で第41回わんぱく相撲文京区大会が行われました。協賛している宅建文京区支部もボランティアブースを出店し、青年会から中青年会長ほか7名がブースの運営を手伝わせていただきました。
およそ200名のわんぱく力士が土俵でかわいい熱戦を繰り広げる中、敗退してしまった子や取組まで時間のある子が各ブースを回りスタンプを集めることで、おたのしみ抽選会に参加できるという趣向になっています。
宅建のブースでは駅名当ての三択クイズが行われ、正解するとスタンプの他に支部からいただいた粗品や、お菓子などを配ったのですが、クイズを出した時の子供たちの反応が様々でまたそれが大変かわいらしく、子供と接することがあまりない自分にとって貴重な癒しの時間になりました。
(青年会総務委員長 寺村安弘)

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葛飾区支部青年会の懇親会に参加

4月15日(土)、葛飾区支部青年会総会の懇親会に原副会長と山田広報副委員長の代理として私の2名で参加させて頂きました。最近では映画「男はつらいよ」の寅さんを見送る<さくら>像が新たにお披露目され、ますます観光客で賑わう柴又帝釈天参道の「ゑびす家」にての開会です。
広々とした和室の大広間では皆さんお寛ぎのご様子で、歓談に花が咲きます。葛飾区並びに他支部の方々ともご挨拶の機会を頂き大変有意義なひとときを過ごさせて頂きました。軽妙洒脱な会話でコンパニオンを楽しませる先達の方々に舌を巻くと共に感心し、お客様との会話術として生かすべく勉強させて頂きました。
美味しい料理に舌鼓を打ち柴又名物のお土産にビンゴゲームでは景品まで獲得と、まさしく寅さんのように人情味溢れる素晴らしい会にお招き頂き感慨無量です。ありがとうございました。
(青年会広報委員長 荒井慶昌)

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島国根性の何が悪い!

投稿ページ
『島国根性の何が悪い!』

綱島 正寛 南地区 4班/㈱ツナシマ

最近、特にその気持ちが強くなってきた。永い鎖国政策から一挙に欧米に“追い着け!”“追い越せ!”で結果、たどりついた先はみじめな敗戦であった。その戦後七十年を越えた今、国のあり方を考える節目を迎えている。
グローバル社会とかで、人・金・情報の国境が無くなった。しかし、隣国・中国もアメリカもヨーロッパ連合(EU)も経験した事のない混乱と悩みにさいなまれている。
アメリカ大統領選の共和党の候補者が、メキシコ国境に「万里の長城」を築くのだと宣言し、イスラム教徒の入国を排除すると主張している。
一方では夢と希望と強い経済力の実現を目指したEUの中枢を担ったイギリス連邦が残留か脱退かで国論を二分した結果、離脱を選択し、EU各国も先行きに大きな不安を抱えてしまった。
中国に至っては共産党政権の矛盾や国民の不平不満を外に向ける必要に迫られ、内陸の攻防に明け暮れた4000年の歴史から突如一方的に「海運強国」を宣言した。その結果、中国は一夜にして世界の“ひんしゅく国家”に様変わりした。
今日、国土が狭かろうが島国であろうが、情報のスピードは大国に負けない時代となった。むしろ、大国はなまじ広い国土を持ち、隣国と国境を接するだけに、さまざまな難問を抱え込む時代となった。島国日本では国境をはさむ隣国との対応に苦慮している実態を推しはかるこ とは出来ない。国境を自由に人が往来できれば、そこにイスラム過激派や、不法滞在者、政治難民が紛れ込み、自爆テロや若者の暴挙にどれ程の資金と人の命を投入しているものなのか、島国日本の想像をはるかに超えているだろう。
とかく日本は特殊な国だと言われてきた。日本は国土が狭く島国だけに隣人との接し方には無頓着だった。日本人は日本社会の中でいかに理解され信頼されるかを最も重視し、隣国からの脅威など考慮する必要すらなかった。高じて産業社会も世界に通用しない日本だけの商品やシステムが多すぎると揶揄されるようになった。しかしそれが今日、島国であるだけに大国と同じ悩みを持つ必要も無く、この時代、人・金・情報を国として曲がりなりにもコントロール出来ている。
日本は地球儀の上では極東の島国、日本を知らない国は多々あると聞く。しかし、つくづく“島国でよかった”“島国根性の何が悪い!”と、最近一人でつぶやいている。

新人区議・佐藤ごういちの区議会日誌

「区議会議員となり1年が経ちました」

「皆さんこんにちは!」
4月になり、文京区は新年度のスタートを切りました。
私も区内幼稚園、小中学校の卒業式、入学式に来賓として参加し、昨年とは違う日々を過ごしております。
振り返れば昨年の今頃、私は毎日選挙活動に明け暮れていました。
会員のみなさまのご厚情を賜り、励まされ、多大なるご支援のもと区議会に送り出していただきました。
1年間はあっという間で、まだまだ半人前の区議会議員という焦りで一杯ではございますが、充実した毎日を送っています。1日も早くみなさまに頼られる議員になれるように日々精進してまいります。
今、改めてみなさま一人一人のお顔を思い出しながらこの場をお借りし、御礼申し上げます。
無事に1年とりあえず一回りし、1年間の運びを、身をもって感じ、雰囲気を感じることができました。私が志を持って「やりたい」と胸に秘めていることはまだひとつもできていませんが、それでも私にとって重要な1年であり、たくさんのことを学びました。
一番考えさせられたことは行政と私の立ち位置でした。
「文教」、「総務区民」、「厚生」の各委員会では初めてのことも多く、行政も丁寧にその都度ご説明していただきました。建設委員会では私の経験を生かし、積極的に発言しましたが、同僚議員からの助言もあり、それぞれの諸問題や議題には過程があり、対比すべく全国各自治体の事例があることを学びました。
それらを理解し、調査した上での発言はより重みが出る。行政の職員はそれぞれの専門分野で、文京区を少しでも良くして行こうと何年、何十年も特化して日々職務に励んでいるのです。国策や方針に従い、マスタープランを計画しています。
私は会派としての立場もわきまえて、区政の運営を文京区発展のために見守らなくてはいけないのです。
しかし、私をはじめ会員のみなさまや文京区内在住のみなさまが、それぞれ感じたこと、行政が改善せねばならないことなどは様々な分野において存在することも確かです。
私の「志」、「夢」、「目標」に向かって活動を継続し、みなさまのお声をしっかりと行政に伝えてゆく役割を全うできますよう、日々精進いたします。
「待機児童問題を考える」
先月世間を騒がせた「待機児童問題」、文京区においても年々改善はされつつもイタチごっことなり、今年は特に認証保育園に入れない多くの待機児童が問題となっております。
2015年、文京区は人口が約8,000人増えました。多くの子育て世代が文京区に転入しています。
ご存知の通り文京区に転入する子育て世代は比較的世帯収入も高く、共働き家庭が多く見られます。これに対し全ての児童を保育園に入園させる受け皿が追いついていないのです。
私が議員になる前の昨年、一昨年、またその前の年も待機児童問題は深刻でした。弊社には、区内既存の保育園経営会社や区外からも、文京区に保育園ニーズがあるので保育園が経営できる用地または既存の建物を探している業者が多数来店されました。
弊社が仲介できた保育施設は、全て非認可保育園でした。みなさまのところではこういった話が成約に至ったでしょうか?
文京区は土地や賃貸の空間が希少なため、なかなか認証保育園が経営できる場所がないのです。認証保育施設は新耐震、二方向避難回路、児童一人当たりの園庭スペースなど、緩和は進んでもまだまだ文京区のような狭小特別区には厳しい状況なのです。
しかし、「一億総活躍社会」を目指すには、待機児童を抱える子育て世代の現状を真摯に受け止め、環境確保を目指す必要があるのです。
待機児童問題も10年後にはないといわれ、今、認可・承認保育園を増やしても、いずれ児童が減り、保育園の経営も苦しくなるといわれています。保育士を確保しても児童がいなければ経営として成り立ちません。少子化対策も今後更にしっかりとサポートしなければならないでしょう。
会員のみなさまにご協力していただきたいことは、保育園用地、既存建築物などございましたら、ぜひ仲介してください。現在、特に文京区で保育園が足りないエリアは「本郷三丁目」、「春日」、「後楽園」、「小石川」、「本駒込」、「白山」ということです。
現在、私は面識のあるお寺の老朽化したアパートを建て直し、賃貸借契約または定期借地契約ができないか営業をしております。
よく境内の大きなお寺や神社では幼稚園などの経営をされています。境内がさほど広くなくても、30人規模の保育園でしたら土地が30坪もあればプランがたてられると考えます。
待機児童ゼロを目指し、「一億総活躍社会」の実現に向け、会員みなさまのご協力をよろしくお願いいたします。
「いよいよ新年度」
文京区は平成28年度歳出予算計約825億円、民生費約373億円、教育費約122億、総務費約120億円等となっております。
様々な区内の行事や区政、委員会、議会を体験し、勉強していることを生かした2年目とすべく精進いたします。
本年度は都市計画部住宅環境課が会員のみなさまの力を借り、区営住宅の斡旋をお願いしたいということです。支部の役員会に改めてご相談に伺うと思いますので、その時はより良い区政運営にみなさまのお力をお貸しください。

沼田支部相談役が全日本金銀創作展でW受賞

沼田守康さん(西地区4班、㈲沼田商事代表取締役、支部相談役)は、伝統工芸士と文の京技能名匠者の称号をお持ちですが、このほど第12回全日本金銀創作展の公募展で受賞されました。賞は関東経済産業局長賞「ペンダントブローチお馬さん」と日本商工会議所会頭賞「バングル花唐草模様」の2作品です。沼田さんは「私もダブル入賞は大変喜ばしく思うとともに、これからも技術を研鑽し、良いものを制作していきたいと思います。不動産会社としても頑張りますので、よろしくお願いします」と話されています。おめでとうございました。

2枚の賞状を手にする沼田さん沼田氏

連載「音楽と私」 番外編その(2)
新宿野村ビル「サマーフェスタ」イベントに出演

脇坂元博
東地区4班
株式会社脇坂不動産共報会

前号で紹介しました私が所属しております「TUVE」は、夏になるとイベント出演のオファーを頂戴する事が多いです。今年も、イベンターからの出演オファーをいただきましたので、その様子をリポートします。
8月29日(金)当日、天気予報は曇りのち雨。当バンドのヴォーカルは、雨男・台風男。ほんと、不思議なくらい天候が悪くなるのです。当日の朝は曇りでしたので「なんとか雨が降らないでほしい」と願いながら、ヴォーカルと一緒に現地へ向かい機材の搬出。ヴォーカルは、「やっぱり俺のせいだな~」と笑いながら言っていたが、現地は野外ステージの為、機材と楽器が心配で、私はヴォーカルに「ちょっと、頼みますよー」とコントの様に話しながら機材の搬出が終わったのです。
その後、リハーサルを行い、音のバランスチェックを行います。順調に終わったと思った途端、雨足が強くなり、土砂降り。
「本番までには、雨がやんでほしいねー」と、あちらこちらでそんな会話が飛び交っている最悪の状況だったのですが、本番の1時間くらい前から小雨になり、30分前には、なんと雨がや んだのです。
そんな奇跡が起きた天候の中、野外ステージでライブがスタートしたのです!
1バンド目は、「Jo’z」(B’zトリビュートバンド)。なんと、長野からはるばるやってきたのです。Jo’zのヴォーカルさんは「B’z軍団」の一人としてテレビにも出演オファーが来るほどの方で、とても声がそっくり!! 当然、観客は盛り上がっており、「さすがだねー」と話しながらTUVEメンバーは舞台袖から見ていました。
さて、Jo’zさんが終わり「TUVE」の出番です。イベント出演の時は、老若男女の方々が見にいらっしゃるので、我々 TUVEは、誰でも知っている定番曲で攻めて行きます♪
主に、80年代後半から90年代のシングル曲♪♪
客席はビアガーデンブースと、ライブを観覧するブースの2箇所あり、雨もやんでいる為、約300人強のお客様が足を止めて観覧されていました。
ステージから見える景色が、あまりにもお客様が多いのでメンバーはビックリ! また、TUVEのヴォーカルが「一緒に手を振ってみんなで踊ろう」と言うと、観覧されている方々は踊って楽しんでくださっている様子♪ 今までにないお客様の良い反応で、会場は一体となって大盛り上がり。
ライブ後は、本当に沢山の方からお褒めの言葉を頂き、イベントは大成功に終わりました。

〈セットリスト〉
1 夏を待ちきれなくて(1993年シングル)
2 SUMMER DREAM(1987年シングル)
3 あー夏休み(1990年シングル)
4 ~花火~(1998年シングル)
5 さよならイエスタデイ(1991年シングル)
6 SUMMER CITY(1989年シングル)
7 恋してムーチョ(1994年シングル)
(アンコール)
8 シーズン・イン・ザ・サン(1986年シングル)

連載「音楽と私」 番外編その(1)
「TUVE」誕生の裏話

脇坂元博
東地区4班
株式会社脇坂不動産共報会

遡ること2011年のとある日、古いバンド仲間から「俺の友人が結婚するそうで、その披露宴で歌ってくれないか?ってオファーがあったの。ワッキーの予定が空いてたら一緒に演奏しない?」って言われ、快諾したのがTUVEの始まりでした。
10年以上前、彼とは一緒にTUBEの楽曲を演奏するバンドを結成していて、3回ほどワンマンライブをやった仲間。当時、彼はヴォーカルを担当していました。
彼は、ライブパフォーマンスが優れていて、観客を盛り上げるのを得意としているので、面白い計画を立てたのです。
私は彼に対し「昔はコピーバンドだったでしょ。あんなの、ライブ演奏というよりTUBEの音楽を好きな人が集まってお祭り騒ぎしてるだけだった。それじゃー、自己満足だし面白くないよ。私のJazz Fusion仲間を招集するから、演奏技術力を最大限に高めて〈トリビュートバンド〉を結成しようよ!」と提案したところ、彼は「トリビュートって何だい?」と聞いてきました。私は「演奏力を重視しながらアーティストの楽曲の良さを観客に聞いてもらって、アーティストの楽曲をアピールする非公認広報活動のような感じかなー」とわかりやすく説明したところ、「楽しそうだね♪ 是非やってみようよ」という言葉をきっかけに、バンド名も悩んで考えた「TUVE」が誕生したのです。
披露宴での演奏が盛大に終わり、数ヶ月経過したころ、コーラスを担当している彼女から、「私 の知り合いのイベンターから三浦海岸で演奏す るオファーがあるけどやってみる?」と言われたのをきっかけに、他のトリビュートバンドの方々 や、イベンター会社、広告会社の関係者が 「TUVE」の事を知っていただき、イベントのオ ファーをもらう事に成功していきました。次号では、今年8月にオファーをいただいたライブの模様を掲載します。

【過去の活動履歴】
2012年8月 三浦海岸LIVE(World Beer Coast)
2013年1月 第3回邦楽トリバンフェスティバル(クラブチッタ川崎)
2013年5月 湘南Sound Festival(テラスモール湘南)
2013年8月 Citta’の夏祭り川崎(LA CITTADELLA野外広場)
2013年10月 Autumn Summer2013(主催企画ライブ)
2014年2月 第4回邦楽トリバンフェスティバル(クラブチッタ川崎)
2014年7月 中村哲也氏 結婚披露宴パーティー(沖縄サムシングフォー西崎)
2014年8月 Summer Festa(新宿野村ビル特設野外ステージ)

連載「音楽と私」 最終回 「記憶に残るライブ」

南地区4班 綱島正寛 株式会社ツナシマ

長いこと音楽とのつながりを書いてきました。その最後に「記憶に残る演奏は?」と聞かれたら、迷わず平成20年9月3日、帝国ホテル“富士の間”における演奏と答えます。それは全く予期せぬ出来事があっての演奏でした。
私の岳父は戦後復興の象徴と言える「アメ横」から事業を立ち上げた言わば立志伝中の男でした。若かった20 ~ 30歳代の我武者羅に生きた過去を振り返り、晩年「私の生きざまを若い人に少しでも知ってもらいたい!」との気持ちで半生を記した自叙伝を出版致しました。出版に際し「この自叙伝の出版記念を帝国ホテルで開きたい」と言い出し、私は裏方として奔走することになりました。ご招待客のリストアップに始まり、当日の席順まで連日打ち合わせや調整に追われました。父も自分にとっては最後の催事となるかも知れない、との思いで数少なくなった戦友や趣味の仲間にご招待状を届けるため9月の残暑の中をかけずり回りました。
しかし、90歳を超えた老体にはやはり無理が祟り体調を崩し、パーティー前日に入院しなければならい事態が発生してしまいました。本人不在の出版記念パーティーは延期もキャンセルも出来ません。裏方としては“万事休す”の心境でした。
司会を頼んだ友人に相談致しました。友人が一言、「これはPolestarの出番ですね!」。これで決まりました。緊急連絡がポールスターの面々に届きました。事情も分からないままに帝国ホテルに集合がかかりました。遠く旭川から駆けつけてくれたメンバーもおります。宴会場では何か普段の“出版記念パーティー”と違和感があると感じていたご来場者が演奏が始まりステージの緞帳が上がり歓声とも驚きとも言えない声が広がりました。
「何だ!これは!」「婿殿も演奏するのか!」「おー」「ヤー」の声が耳に入りました。500人からのご招待者が誰一人本人不在の不満を口にされた方はおられませんでした。絶対絶命のピンチを救ってくれたのは他ならぬ“BIG BAND Polestar”のメンバーでした。
素人の音楽仲間とは申せ、金銭ではない人間として本当の付き合いを心に刻んだ瞬間でした。仲間でも「帝国ホテルのライブは計画して出来るものではない」という思いは今でも続いています。
音楽は道楽には成り得ません。趣味が高じて家計の崩壊もありません。音楽に必要なのは「健全な精神」と「健全な肉体」なのです。
-完-