「エッセイ」カテゴリーアーカイブ

連載「音楽と私」 その11「町おこしに思う」

南地区4班 綱島正寛 株式会社ツナシマ
 なにか世の中がおかしいと感じはじめた頃、リーマンショックが日本を襲い、経済がデフレスパイラルの悪循環に陥ったのが2008年でした。このままでは日本発の大恐慌すら考えねば……などと重苦しい雰囲気が身近に感じたものです。「これはいけない」と地元湯島の友人となんとか明るい雰囲気を取り戻したいと、町おこしを考えました。地元湯島と本郷の町おこし、名づけて『湯島・本郷町おこし YUHOの会』がスタートしたのが平成8年の秋でした。
 ひと口に「町おこし」と言っても、その考え方や進め方は千差万別。何を目的に誰に向かって何を、何時行うのか、これをまとめるまでが大変でした。資金、マンパワー、支援企業、アイデアなど何も無いスタートでした。喧々諤々意見を交わす中で、地元湯島・本郷を明るく、誰もが訪れたいと感ずるには「音楽」と「歴史」で町に元気を出させるのが良いという結論に達しました。湯島・本郷の歴史を学び、地元に縁が有る人による音楽演奏会をイベントとして開催しようということになりました。クラシック、JAZZ、二胡、創作ダンスなどを湯島聖堂の境内(大成殿)でイベントとしてライブ演奏する企画を立てました。無論、音楽イベントのみならず、町を散策し、町の歴史教室も開講しました。
 何と言っても音楽イベントは人気を集め、回を重ねるたびにファンは増え続けました。11月3日の文化の日、湯島聖堂の回廊にはさまざまな楽器の音色が響き渡りました。シビック大ホールで毎年定期コンサートを開催する「東京ジュニアオーケストラ ソサエティ」、古典音楽の第一人者坂田進先生の「二胡独奏」、創作ダンスと音楽の「YOU CAN」や地元の江戸囃子「湯島はやし連」、そしてJAZZ BIG BAND「Polestar」などがイベントを盛り上げたものです。
 企画から始まり、渉外、記録、広告、資金調達、会場設営、進行に至るまで僅か6、7名の限られた陣容で5年間続けてきました。続けられた要因はなにか? それは言うまでもない「音楽」の存在です。決してお金の為とも言えないこの「町おこし」を当初から5年は続けようとスタートして、本当は若い人にバトンタッチしたかった。残念なことに、今時の若者にこうした想いを継承しようといった意気込みが失せてしまった事を残念に思う。この町おこしがいつかまたの日に復活してくれる事を夢見ています。
 この町おこしを共に悩み、共に創り、共に歩んだ日管設備の富永秀実氏が本年3月13日に急逝されました。私にとっては痛恨の極みです。

連載「音楽と私」その10「ふたりのラジオ・パーソナリティ」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ

 昭和42年頃から始まったラジオの深夜放送がある。“ミスター・ロンリー”の曲に乗って「遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休めるとき、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は……」、この城達也のナレーションにどれだけ慰められたか知れない。時代は高度成経済成長の真っ只中、駆け出しのサラリーマンがFM東京の『JALJETSTREAM』なる音楽番組から発せられるあのカーメンキャバレロやアルフレッドハウゼやポール・モーリアが奏でる名曲にどれだけ癒されたことだろうか。
 それから半世紀近く経過した今年の正月、さっぱり購買意欲を駆り立てないTVショッピングを見るでもなくぼんやりながめていると、『あの機長“城達也”がご案内する「JETSTREAM」への旅を再び貴方に!』の言葉に一瞬目と耳が硬直した。「あの時の感動や心の清涼剤が再び味わえるのか!」と思うと次の瞬間、“通販受付電話”に申し込みをしていた。
 アップテンポでボリューム一杯の電子音ではなく、全身に沁み入るあの頃のメロディに私の身体は乾ききっているのかも知れないと感じた。全235曲のCDが届くのを待ちわびて正月をすごした。
 CD到着後、むさぼるように聞き入った。城達也のナレーションが出だしと巻末にあり、いやでもその雰囲気を感じられる。しかし昔と違うと感じたこともある。この全収録235曲の中に苦労しながらもMyBigBand“ThePolestar”での演奏曲が多いことに気が付いた。「愛の讃歌」「イン・ザ・ムード」「オリーブの首飾り」「枯葉」「黒いオルフェ」「煙が目にしみる」「ゴッドファーザー愛のテーマ」「サマータイム」「シバの女王」「白い恋人たち」「時の過ぎ行くままに」「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」「ヘイ・ジュード」「星に願いを」「ムーンライトセレナーデ」などなど。
 この半世紀にならんとする間に自分自身にどんな変化があったのだろうかと考えを巡らせた。おそらくこの城達也のラジオ放送から私の音楽の世界との縁が始まり熟成したのだろうと自分なりに納得している。
 ここでもうひとりのラジオ・パーソナリティに触れておく必要がある。その名は滝良子、通称“そらまめ”さんだ。正直、私自身はこの人のラジオ放送を生で聞いたことはない。この時代、私がJALの“城達也派”だとすれば、ANAの“滝良子派”が存在したのだという。ニッポン放送のラジオアナなのだそうで、城達也の全盛期に「全日空スカイミュージックホリデー」なる番組があったのだという。
 どちらかといえばジャパンポップスが主体の音楽番組で、当時の売れっ子の森山良子やイルカ、松任谷由美などをゲストに招いて、女性の視点からの軽妙なトークに人気があったのだという。このことを知ったのは、実はそんなに昔ではない。私の母校、旭川西高の同期会が開かれたとき、クラスメートからこう言われた。
 「あら、綱島さん知らなかったの? あのニッポン放送の“そらまめ”さんて、クラスメートの滝沢良子さんよ!」。知らないということは恐ろしいもので、以来周囲に“あこがれのお姉さんだった”というファンが意外に多いことに驚いた。

連載「音楽と私」その9「長寿社会と音楽」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ

古希の歳を迎えて長寿社会に思うことがある。もしかすると「音楽」は長寿社会の“リトマス試験紙”ではあるまいか?ということだ。
世界に冠たる長寿社会の日本ではあるが、はたして喜んでばかりいてよいのであろうかと思う。年々増加の一途をたどる孤独死、老々介護、そして崩壊寸前の年金保険制度や医療保険制度などなどだ。
長生きするというだけで良いのではない。これからはいかに老後の課題を回避して、自らを律して生きて行かなければならないということだ。
「音楽」と接することにより五感の機能、そして指、手、足、腰などの筋力や脳神経系の老化を明らかに防止する。音楽はこうした身体的機能を総動員してはじめて曲作りや、演奏が可能となる。
長寿社会を生き抜くための身体的能力を薬やサプリメントに依存することではない。私の場合の「音楽」に自分自身の肉体的限界やその日のコンディションを知る上での言わば“リトマス試験紙”的役回りと考えている。
楽器には金管楽器、木管楽器、弦楽器、打楽器などで、それぞれの分野には細かく楽器が分類されている。私は木管楽器のフルートとバリトンサックスとの縁が続いている。
フルートなどはアルコールの影響で舌や唇がしっかり形作ることができないことを最も毛嫌いする。
バリトンサックスは音楽全体のイメージを捉える精神の安定が必要な楽器です。今日は「音が出ない」「リズムが取れない」「コミュニケーションが取れない」、そして何よりも「気が乗らない」などの兆候は自己診断し、それを調整することは可能なのです。
新春から日経新聞の【私の履歴書】は世界的指揮者小澤征爾氏の連載が始まりました。その小澤征爾氏の寄稿文に「音楽家は忘れることが大事なのです」とある。勿論世界的指揮者の言う「忘れる大事さ」と、単なる音楽愛好家と同じ意味で捉える必要はない。しかし、小澤征爾氏の場合、ひとつの演奏会を終えると次のコンサートのために今終えた演奏曲を忘れなければ次に備えることが出来ないというのだ。私の場合は、新曲を作り上げることや、ライブ演奏をこなす時、仕事や日頃のプレッシャーから解放されなければうまく行かない。
つまり小澤征爾氏の音楽を忘れることと私が日常業務のストレスから開放されることとは同じ次元と捉えることができる。小澤征爾氏にとっての「音楽」は、癌を克服し、80歳を超える、さらに活躍できるかどうかの「リトマス試験紙」の反応に注目したい。

連載「音楽と私」 その8「JAZZ演奏に思う」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
 演奏会で「目指すジャンルは“スイングJAZZ”です!」などと言って我が「Polestar」をMCが紹介します。軽い気持で口にするこの「JAZZ」とは何か、正直あまり詳しくもないし、知る必要性もあまり感じない。しかし「JAZZ」には歴史も理論も人物も絡んでいることはたしかです。グレンミラーもサッチモもJAZZの歴史から言えばほんの一握りの登場人物に過ぎないのです。
 19C末から20Cの初頭、アメリカ南部都市を中心に派生した音楽形式に、やがてアフリカ系アメリカ人のリズム感覚と西洋楽器を用い高度な音楽の理論と技術を融合させたのがJAZZと言われています。
 その「JAZZ」の語源はといえば諸説があります。スラングで女性性器JASS(性行為)からきたとか、売春宿をJASS HOUSEと呼び、その売春宿の待合室や酒場を主な活動拠点としていた音楽家をJASS BANDと呼ん だことが「JAZZ」の語源となった説もあります。
 かつてアメリカにはビッグ バンドを率いるあこがれのミュージシャンは数多くいました。ジャズ全盛の時代にはグレンミラー、ベニーグッドマン、ハリージェイムス、デビッドマシューズ、ペギーリーなどです。
 戦後日本にもBIG BANDは無数に活躍していました。ラジオ・テレビの普及に伴い、あらゆるジャンルの音楽を日本流にアレンジしたBIG BANDのメロデイ―が生演奏で聞けたものでした。「有馬徹とノーチェックバーナー」「小野満とミックスブラザース」「鈴木章二とリズムエース」「スマイリー小原とスカイライナーズ」「ダン池田とニューブリード」「チャーリー石黒と東京パンチョス」「原信夫とシャープス&フラット」「森寿男とブルーコーツ」などなど、バンドのリズムを耳にしない日はありませんでした。それだけではなく、全国どこのダンスホール、キャバレー、ライブハウスに行っても、生演奏を聞くことが出来たのです。 
 今や音楽の世界ですら効率、一人当たりの生産性、IT化の時代に入りました。BIG BANDはとてもコスト高で維持することが難しい時代になのです。「Polestar」が演奏するプログラムには必ず組み入れる曲があります。「東京ナイトクラブ」「つぐない」「北の宿から」「津軽海峡冬景色」「北国の春」「川は流れる」。30 ~ 40年前、いつも身近に居たあのBIG BANDを思い出す後期高齢者の笑顔が、いつも救いとなってくれます。
 この夏、「BIG BAND FESTVAL 2013」Vo.15 がシビックセンターで開催されました。シビック大ホールが、駆けつけた高齢者でぎっしり埋め尽くされていたことに、今更ながら驚かされました。

連載「音楽と私」 その7 「その費用と効果」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
 音楽に接しながら、つくづくプロではなく趣味の世界で良かったと思う。おそらくプロの世界ではおよそこんな楽しい気持を抱くことは無かっただろうと思う。しかし、いくらアマチュアの世界の話とは言っても、その分野により投下すべき資金は随分違うものです。書、絵画、陶芸、写真、料理、旅行、俳諧、ゴルフなど、その世界は無限です。しかも、それぞれの分野には異なる条件が付きまといます。時間、場所、材料、道具、人間関係など、極めれば極めるほど資金を投下しなければなりません。その点、音楽は実に安上がりな趣味と言ってよいのではないかと思っています。
 たしかに種類によっては何百万円、いや億を超える楽器もあります。しかし、趣味の世界にはおよそそれは無縁な話です。音楽以外の趣味の世界を極めようと思えば、それは“道楽”の世界と言います。そこまでいくと個人的感性にこだわる材料、道具、時間、場所にこだわらなければなりません。しかし音楽の、しかもBIGBAND について言えば、極めていけば「是非演奏して下さい。些少ではありますが交通費程度はお支払します!」と、資金投下ではなく多少なりお金が入るわけです。しいて必要なコストは何かと考えると「場所」の確保に尽きます。個人練習は各自がやっての前提でバンドメンバーが週1回練習に集まって曲作りをする“練習場”が必要なのです。幸い私のBIG BANDは文京区の社会教育団体の指定を受け、区の施設(アカデミー文京)を安く借りられる条件にも恵まれ、およそ投下するほどの資金は必要ないのです。
 楽器にはさまざまな種類があります。音楽に親しむにつれ、自らの健康維持には欠かせない活動であることを感じて来ました。音楽には避けて通ることの出来ない要素に、脳と密接な動きを必要とする腕、手、指、足、口、それを確認する目、耳の働きが欠かせません。さらに管楽器の場合、横隔膜、肺、気管、鼻、歯、舌など、すべての器官を駆逐してひとつの音を作り出します。この呼吸器系の臓器、つまり肺機能は腹式呼吸などにより、酸素を確実に体内に取り入れることが出来るようになります。人間の身体にとって常に鮮度の良い酸素を取り入れることがどれ程大切なことか、実は病で入院しながら身をもって感じたこともあります。日頃から楽器をいじりながら同時に深呼吸する習慣が、病気に対する回復力を大きく左右するのです。
 楽器は消耗品ではあります。永久に使える訳では有りません。それでも大事に使えば20年、30年使えるものです。今年に入りフルートもバリトンサックスも買い替えました。フルートは一部銀製からオールプラチナへ、台湾製のバリトンサックスから日本のトップメーカー製に買い換えたのです。この楽器を見つめて「これが自分の人生最後まで付き合ってくれる楽器か!」と思うと、むしょうに愛おしく思えたりします。
 「楽器は高いものではない」と改めて確信したのです。

連載「音楽と私」 その6 「忘れられない男」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
 BIG BAND「Polestar」も人間集団であるだけに悲喜交々、さまざまな思い出があります。ポールスター、その中に忘れてはならない人物
がいました。柏川守君。3年前の秋「俺、もっとビッグバンド続けたかったなあ…!」と最後につぶやいて62歳の若さで他界した。
 柏川君は高校の後輩で、音楽には興味津々ながら先輩の音楽集団に顔を出すには抵抗感があったという。よく聞くと、専門の農業技術の指導員としてブラジルに滞在したこともあり、そこでサンバやルンバ、タンゴのリズム感を磨いたという。「楽器を持っていないのでどなたかトランペットをお借りできませんか?」と言ってメンバーの一員なった。私の息子が放り出していたトランペットを「使ってみますか?」と渡すと、水を得た魚とでもいうかのように、狂ったように音楽に浸ってしまった。
 「Polestarにはトロンボーンがいない!」と誰かが言うと早速、「私がトロンボーンやります!」とトロンボーンを購入し、個人レッスンを受け、瞬く間に「Polestarの正トロンボーン奏者」としてそのポジションをしめた。
 学生時代は応援団長とかで、よく通る美声の持ち主でライブではトロンボーンを片手にMCの担当もこなした。ジャズの歴史、ジャズ奏者のプロフィール、曲の背景を巧妙なトークで観客を魅了していた。
 ある日「実は来月から旭川の木工メーカーから社長を引き受けて欲しいという声が掛かり、受けることにしました。しかし、このPolestarの音楽活動は今まで通り続けますのでご心配なく!」と話し、毎回の練習にはいつもの通り、あたり前の顔をしてトロンボーンを抱えて旭川─東京間を往復するようになった。
 ほどなく「私が旭川滞在中に母校、旭川西高創立100周年記念祝賀会があります。私が100周年記念式典実行委員会に交渉してきますから、是非母校の創立100周年記念祝賀会で Polestar による校歌演奏を実現しましょう!」とE-mailがメンバーに配信されて来た。
 東京のメンバーは「こんな事、実現できるの?」と思わず見つめ会うだけだった。なんと言ってもメンバーの時間調整、遠征費用、現地の宿泊、楽器の移動などを考えても実現できるとは思えなかった。柏川君が旭川のイオンと「ジャズ ビッグバンド Polestar のライブ演奏」の売り込みに成功し、最も大きな課題である費用問題を解決し、2007年9月、母校の100周年記念ライブも実現してしまった。
 2010年秋、東北地方を大震災が襲う1年前、岩手県盛岡市のイオンモール特設スタジオに体調を崩した柏川君の姿がありました。日帰りのスケジュールは身体に応えたと思うが、最後の演奏と魅力ある低音で盛岡市民にジャズの楽しさを伝えておりました。この時のCDを聴くにつけ、もう少し楽しんで貰いたかったと心底思い出す。
Jazzband
在りし日の柏川氏(手前)。イオン柏店での演奏会で(平成18年)

連載「音楽と私」その5「舞台裏の話」

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
 私にとって音楽活動は楽しみであり、しんどい事の連続でもあります。
 どんな趣味の世界でも、さりげなく表現できるのは、それまでの長い積み重ねがものを言います。水鳥の水面下の水掻きがあってこその優雅さと同じです。
 BIG BAND「Pole Star」のメンバーにはそれぞれの役目があります。もっぱら譜面の入手やアレンジに専念する人、ライブ演奏を売り込む人、少ない予算をやりくりする人、スケジュールを管理する人、練習会場を確保する人、譜面台を製作する人、ITを使いネットワークをつくり上げる人と、誰一人として無用な人は居ないのです。私はと言えば長く機材運搬係りがその役どころでした。
 私の場合、担当がバリトンサックスだけに、とても抱えての電車の移動はしんどい。車に積んで会場に駆けつけると、「綱島さん! 私の楽器とアンプも一緒にたのむ!」と、いつしか、あれもこれも機材一式を運ぶ運送係りが暗黙の了解事項となってしまったのです。
 幸か不幸かBIG BANDは金管楽器主体。加えてドラムやエレキギター、ベースが加わり、スピーカーやアンプ類まで搬送しなければならない。素人とは言え、「BIG BAND」ともなれば形やスタイルにもこだわります。
 舞台裏の運送係りとしては、関東近県のライブ会場には車で搬送しなければなりません。安全に機材を運びそして絶対、時間を守る責任を負わされます。やがて楽器などの重さに耐えかね、乗用車のスプリングもサスペンションもすっかり伸び切って、ちょっとした段差で車のお腹を引き摺り、廃車を余儀なくされました。
 そんな折、海外で勤務することになった友人が「私のワゴン車を良かったら暫らく使ってくれませんか?」と相談があり、渡りに舟とばかりに、メンバーの熱い期待に応えて借りる事となった。ワゴン車を借り始めたのが平成18年。友人が帰国までの約束で、「BIG BAND 運送係り」の役割は6年ほど続きました。
 ライブ演奏はせいぜい1ステージ30分から60分程度。その演奏のために費する練習時間は膨大だ。年に7、8回の演奏に備え、重いバリトンサックスを抱え練習場に駆けつけ、ほぼ毎週のように新曲づくりに没頭しなければならず、おかげで日曜日のほとんどはつぶれます。お蔭でサンデーゴルフも「綱島は誘ってもダメ!」と、今では声すら掛からない。 趣味とは申せ、年に7、8回地方を含めライブ活動を続けることは楽ではない。
 新潟、盛岡、仙台などで日帰り演奏をする事もある。老いも若きもこんな時は何故か気持が高揚するものです。2ステージを終え、帰路の新幹線で深い眠りに落ちる快感は格別です。翌日、何も無かったかの如く淡々と仕事を続けることが、この趣味の醍醐味といえます。
《続く》

連載「音楽と私」その4「BIGBANDポールスター」の誕生

南地区4班
綱島正寛
株式会社ツナシマ
一人の男の登場により目の前の音楽環境が一変してしまった。
私の学年で言えば3年先輩の藤原博さんが、ヨチヨチ歩きの音楽仲間に参加したのが平成9年。今から16年前のことでした。
平成8年、恵比寿ガーデンプレイスのビアホールで初めてのライブ演奏デビューの翌年、同窓会で「藤原さん一緒に音楽やりませんか?」の誘いに、「メンバーに入ってもいいよ!」と気軽に返事をくれた。
最初の練習日にはクラリネットとアルト・サックスを抱えて参加し、なにやら聞き覚えのある曲を一人で軽く吹いてくれた。「次はサックスで行くね!」と、またもや聞き覚えの有る曲を聞かせてくれた。
「最初はムーンライト・セレナーデ、2曲目はA列車で行こう」
これまで自分の気持の中で描いていた音楽の世界との違いに、明らかなカルチャーショックを覚えた。聞けば藤原さんは高校の吹奏楽部、大学のオーケストラ、そして今では市民オーケストラのリーダーだという。本業は国立感染症研究所のれっきとした研究者で医学博士。この人こそが私を単なる楽器愛好家からビッグバンドの一員に導いてくれた恩人とでも言うべきか、伝道者といえます。
「フルートではバンドに向かないから、綱島さんはアルト・サックスにして下さい。指使いは殆どフルートと同じで、音はサックスの方がずっと出し易いので問題は有りません」などと問答無用の指示をいきなり言ってきた。
かろうじて指を覚え、なんとかリード楽器の音に馴染んだ頃、「このメンバーのサックスパートに足りないのはバリトン・サックスです。綱島さん悪いけれどバリサクに持ち替えてくれない?」
私は「何という横暴な事こと言って来るのだ!」と、この無理難題に反論する時間すら与えられなかった。
およそ楽器の中では最も軽量なフルートを選択したつもりでいたら、ビッグバンドの構成では最も重いバリトン・サックスに持ち変えることが、いかに重労働であるかを暫く後に思い知ることになる。
この藤原さんの人生の夢は「自前のビッグバンドを持ちたい!」だと、後日告白してくれた。その藤原さんの「夢」実現のお蔭でジャズ、ポップス、演歌、歌謡曲、クリスマスソング、スクリーンミュージックなど、期せずして音楽の世界に巻き込まれることになりました。
「せっかくだからこのBIGBANDのネーミングを決めよう!」ということになった。「俺たちは北国の旭川から流れてきた。しかし、いつも軸はぶれない北極星、そうだ!“ポールスター”で行こう!」
かくて紆余曲折しながらも『BIGBANDPolestar』が誕生した。時に平成9年3月29日、高輪プリンスホテルで産声を上げた。
《続く》

鳩山家との思い出─安子様を悼みて

西地区4班
後藤晃
後藤不動産株式会社
(支部顧問、元支部長、不動産鑑定士)
本年2月11日、鳩山安子様が亡くなられました。
私は、安子様に長らくお付き合いを戴き、ご愛顧を賜っておりましたので、去りし日々の想い出を語らせて戴きます。
私の女房の両親が国会議員(河野金昇、孝子)でありましたので、ある程度、政治に関係はありましたが、鳩山家と、これほど深いお付き合いをさせて戴くとは、思いもよりませんでした。
由紀夫さん(敬称略す)は、アメリカで幸(みゆき)夫人と電撃的なご結婚をなされ、お母様の安子様はご家族ご一同と、挙式のためアメリカへ渡られました。
帰国されて間もなく、安子様から「由紀夫の家を探してください」と、お話しを戴きました。
目白の近衛邸の跡地に、三井不動産が建てた高級マンションがあり、後藤田さん等政治家が住まっておられました。
当社は三井不動産の特約店でありましたので、ご紹介をし、お買い戴きました。これが鳩山家との不動産の最初のご縁であります。
それ以来、新婚の幸さまに親しくして戴き、色々とお客様をご紹介して戴きました。
ある日、安子様から、目白に森下仁丹の社長の家が売りに出ているので、邦夫のために買いたいがどうか、とのお話を戴きました。
私は即座に、「それはダメです。政治家は地元を離れてはいけません。文京区でお探しすべきです」と進言いたしました。
しばらくして、たまたま駒込の大和村に、元首相の若槻礼次郎の屋敷跡が売りに出ました。私が安子様に話しますと、「広すぎる」と言われましたが、値段がそう高くなかったので、「お買いになってください」とお勧めし、ご購入戴きました。
邦夫様と屋敷内を見に行きましたら、床の間のおかけじの後ろに穴があり、そこから屋上に脱出できるようになっているのには、2人で驚きました。
建物は新築されましたが、ここが邦夫様の御屋敷となりました。
やがて選挙が近づき、安子様から、根津あたりに選挙事務所を探すように言われました。
私は対抗馬との関係で、上野の広小路あたりが良いでしょうと、進言致しました。上野には見つからず、本郷三丁目の近くの本郷通り沿いに物件が出ました。
安子様は、「すこし大きすぎるわ」を言われましたが、ここは将来、ビル街になりますから、お買いになっておいて下さいとお勧めし、ご購入戴きました。そして、やがてこの周辺はビル地域となっていきました。
私はいつも安子様と、広い庭園と都心が一望できる、お父様の一郎様のお部屋で、お話をさせて戴いておりました。
私はかつて、色々なお客様方に住宅、ガソリンスタンド、店舗用地等、色々な種類・地域の不動産をお世話させて戴いて参りましたが、不動産業者は、ただお客に言われたまま探すのではなく、地域市場の精通者として、お客様の真のニーズを先行して把握していくことが肝要であると思います。
その後、ご長女様のお宅のお庭の南側に土地の売り物が出ました。これは間口が狭く、奥行きの長い、単独では使用することのできない地形の良くない土地でした。
私は、隣地の方が買われるということは一切秘して、値切りに値切り、かなり安くお世話させて戴きました。
ご長女様にとっては、今までの土地と、その南側の細長い土地を合わせると、丁度良い地形となりました。
私はボーイスカウト文京第5団(わが国で有数のボーイスカウト団)の育成会長を長らくやっておりますが、邦夫様は常日頃、私たちボーイスカウト団にご協力戴き、ご子息の太郎様が文京第5団のカブスカウトに入隊されました。当初は学芸大学附属小学校に入られましたので、近くの桜並木通りにマンションをお世話させて戴きました。
このようにして、私は鳩山家に不動産の多くをお世話させて戴きました。ですから、邦夫様は、会合などで皆に私のことを「うちの不動産屋」「うちの不動産屋」を言われておりました。
ご存じのとおり、安子様は石橋家のご令嬢でありましたから、安子様とのお話しでお買いになることが決まりますと、私は麻布にあるブリジストンの社長の広大なお屋敷の中にある、石橋事務所の担当者と契約の段取りを進めて参りました。
鳩山邸は、古い建物で、当時は壁が剥がれてもお構いなしでしたが、それがいかにもご大家の風格を感じさせておりました。安子様はたかぶらず、とても優しいお人柄で、私が鳩山邸をおいとまする時には、いつも玄関から出られて、さらに私の車の所まで来られて、お別れのご挨拶を戴いたのには、いつも恐縮させられました。
安子様のご冥福をお祈りいたします。
Hatoyamakaikan
(平成25年2月20日)

続・地図を頼りに札所巡り(東国編)

北地区4班
奥野光績
株式会社駒込不動産
 平成12年の5月2日、「西国三十三ヶ所観音霊場」の結願寺、美濃国の谷汲山華厳寺を打ったので、そこから下呂温泉に泊まり、翌日は高 山から白川郷へと足を延ばした。ゴールデンウィークの白川郷は桜が満開(写真①)、結構人が多かった。遠くの山は白雪が輝き、きれいだった。
 西国のあとは津々井四十三観音、三浦三十三観音、そして信濃三十三観音。この信濃の第二十七番金峯山牛伏寺は松本市郊外に10万坪余りの寺域を持つ厄除け霊場で、寺伝によると、「天平勝宝七年(756年)唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納経の途中、経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が、この地で同時に斃(たおれ、その使者たちが本尊十一面観世音菩薩の霊力を知り、その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京した。この因縁により寺号を牛伏寺と改め、牛像を祀っている」という。
Nanohana
<菜の花が広がる北竜湖のほとり>
ここは我が古屋家の菩提寺でもあり、平成11年6月20日、父の三回忌法要で家族が集まった時、住職の大谷様より朱印帖を授かったのが最初だった。それから2ヶ年半かけて三十三ヶ寺を打った。
第一番札所の麻積村の法善寺から第三十三番、上水内郡小川村の高山寺、及び客番の善光寺、そして別所温泉の北向観音堂。佐久市に近いところでは、小諸市大久保の布引観音で知られている釈尊寺は、第二十九番である。この札所巡りで心に残ったのは、飯山市瑞穂写真①桜が満開の白川郷にある札所を打ったときのことで、野沢温泉泊まり十三外湯巡りの途中に在る「朧月夜の館」に寄り、翌朝、第十九番札所、小菅山菩提寺を打った後、日本唱歌の高野辰之の生まれた里に近い神秘的な北竜湖(写真②)のほとりの丁度淡黄色に咲き始めた菜の花畑を眺めつつ「朧月夜」の歌を思いながら散策した。
少年時代に友達と野山で遊んだ情景を懐かしんで作った「故郷」や「春の小川」「春が来た」「もみじ」「故郷の空」の作者、辰之は、下水内郡豊田村(現在・中野市永江)の豊かな農家に明治9年に生まれ、長野師範学校を卒業、上京して上田万年に師事した。文部省の国語教科書編纂委員を経て昭和22年1月、野沢温泉にて終焉。
Sakura
<桜が満開の白川郷>
この里を散策すると、すごくすがすがしい、さわやかな気分にさせられる。
平成14年7月から伊豆横道三十三観音、会津三十三観音、駿河一国三十三札所、奥州三十三観音(宮城・福島・岩手)で、奥州の第一番は名取市の紹楽寺で第六番には松島の瑞巌寺聖観音があり、結願の前日には二戸市の金田一温泉の宿にリュックを降ろしてから「座敷わらし」の住む緑風荘を外から拝見してきた。第三十三番札所、桂清水八葉山天台寺は天台宗瀬戸内寂聴のお寺として知られている。
そして三河三十三観音、最上三十三観音、美濃三十三観音、新西国三十三観音、越後三十三観音、秋田三十三観音(平成24年10月21日結願)を打って、ここまでで約1310ヶ寺、朱印帖も大分たくさんになった(写真③)。
現在も温泉場と観音様を結びつけながら女房と北陸の残りを巡るか、四国に行こうかと計画を楽しんでいる。
Hudashomeguri
<平成2年から始まった札所めぐりの記録>
(平成25年1月19日)