エッセイ

『平成最後の正月に思う』

綱島 正寛(南地区1班/株式会社ツナシマ)

平成最後の年末・年始は考える事が多かった。
平成天皇が退位し、象徴の座を皇太子へ移譲し、一時代の終わりを迎えることになった。
この時代の節目に人それぞれの立場で考えるきっかけとなった。ある人は、国民の継承には諸税の負担は大きいが、この継承イベントの経費は膨大ではないかと言う声もちらほら耳にする。いずれにしてもこの時代の変革は天皇と美智子皇后のごく当たり前の対話から始まったのであろうが、後世に至りどんな思いで国民は回顧するのだろうか。

この節目に「年賀状を出す事を終活の一環として終えたいと思います…云々」の年賀状が増えてきた。若い世代は年賀状の存在すら意識の外で、もっぱらフェイスブックだ LINEだと自由気ままにやっている。昭和人類の一人として、時代に沿うべきか慣習を守るべきか悩んだ。そんな事を考えながら今年の年賀状をどんなデザインにすべきか悩みの種だった。パソコンで打ち込み、プリントした味気のない賀状だけは避けたかった。
一言コメントを書き込める空白を設けようと決めた。年々枚数は少なくなってきたが、何十年と一枚一枚あて名を書き、その人に一言添えることをいつまで続けることができるのか、 頭の中でずっと巡っていた。私も“終活の一環として”と言うべき日が近いとの気持ちが大きくなってきた。

一歩街に出て驚いた。かど松も松飾りもましてや日の丸の旗などはどこに行ったのか見当たらない。日本髪を結った和服姿も無ければ、凧あげや羽子板に興ずる子供の姿などどこへ行ってもお目に掛からなかった。走る車もピカピカに光りながら音も無く静かに通り抜けて行く。昭和の正月と言えば、今で言う右翼の宣伝カー並に騒音の塊だった。
“初荷”の小旗をたなびかせ、排気ガスいっぱいのトラックが街中を飛び回っていたあの正月風景はそれなりに活力と希望を感じさせた。何もかも静かでごみ一つ落ちていない整然とした平成の正月は、海外の観光客でなく昭和の男も実は驚いているのだ。

平成は昭和の後始末の時代だったと誰かが言っていた。
いつの間にか昭和の熱気や夢の拡大を抑制しなければならないと、国の力で調整を図った。
その調整が行き過ぎ、会社も個人もすっかり変わってしまった。会社はともかく個人の職場での付き合い方も様変わりした。
昭和の正月、職場は新年会に始まり、上司への年始回り、同僚の顏がきく店を飲み歩いた。平成の正月は無茶飲みする若手社員が闊歩する姿を見かけない。わずか三十年とはいえ、これだけ人も企業も変わってしまった。
次の元号は4月1日に発表すると言う。その名称はともかく、また平成の後始末と言う時代であってはならない。

「防火のつどい」において文京区支部が表彰されました。

11月 9日から11月 15日まで実施された「秋の火災予防運動」の一環として東京消防庁本郷消防署主催の「防火のつどい」が、 11月 15日、文化シヤッター2階 BXホールで開催されました。文京区支部は「火災予防業務協力功労」として表彰されました。当日、支部を代表して出席した小能大介支部長が石井千明「防火のつどい」において文京区支部が表彰されました本郷消防署長から「感謝状」の贈呈を受けました。
文京区支部では、引き続き、安心・安全な街づくりのため、消防署・地域の皆様と連携し、防火・防災に努めていきます。

投稿ページ 「バラ園」

宮本 修二(南地区3班/株式会社ギヤマン 代表取締役)

5月の連休にバラ好きの妻がバラを見に行こうということで、次女と3人で出掛ける事にした。我が家から一番近いであろうバラ園に行くことになったが、出掛ける段になり、日傘だやれサングラスだと一通りバタバタし、いったん家を出たが、娘が忘れ物をしたと家に戻ったりして、やっと出発する事が出来た。いつもながらの見慣れたビル街を歩き、勝手知ったる順天堂病院で「スターバックス」に寄り飲み物を調達した。病院内のエスカレーターで2階に上がり、直結している歩道橋を渡り、それから2、3分ほどで、それほど広くはないが休日なのに人がまばらな、手入れの行き届いた洋庭園に着く。
そこは一面バラが植えられバラ園と化している。我々3人はそれを見渡せるところに在るあずまや風 に作られたベンチに陣取った。若葉で覆われた枝の屋根が程よく初夏の日差しをさえぎり、5月の風が心地よく通り過ぎていく。
そんな中で買ってきた400KCalもある「抹茶ラテ」(正確な名前不明)をストローでのんびりと飲みながら他愛もないことを話しつつ、バラを見ていたが、3分の2くらい飲み終えたころには、妻と娘が2人で話だし、私を相手にしなくなっていたので、スマホでバラのベストショットを撮ろうと思い、一人で水道公園を散策した。一つひとつ見ていくといろいろな種類があり、また色も様々でつい写真を撮るのに夢中になってしまう。バラの植え込みの中心に行くと、今まで気づかなかったバラの甘い香りが漂っていて、それがとても気持ち良く気分を落ち着かせてくれた。そのバラ園の隣には小さな池がありアヤメが咲いている。こんなにいい所が15分ほどで着いてしまう。ここまでの道のりで一番時間が掛かったのはスターバックスの待ち時間かもしれない。
そういえばこの2週間ほど前、夫婦で根津神社のツツジを見に行った。ここも家からそれほど遠くなく、本郷通りのイチョウ並木を右手に東大を見ながら行くのもいいが、その時は東大の構内を通り抜け、煉瓦作りの建物の間を通って行った。良い散歩道である。のんびり歩いても30分掛からず着いてしまう。以前はそれほど強くは感じてはいなかったが、最近身近に名所や憩いの場がいかに多いかを感じている。流石江戸の町、文京区である。

私は海派?PARTⅡ

山口巖
(北地区3班/山口建設株式会社 代表取締役)

前回、ヨットやボートフィッシングなど、私はやっぱり、「海が好き」というエッセイを書かせていただきましたが、今回は引き続き、海に関する別の趣味の事を紹介したいと思います。実は、我が家には海があるのです、と言うと大袈裟なのですが、我が家には、海水魚の泳ぐ水槽があります。水族館めぐりとマリンアクアリウム、これがもう一つの海趣味です。最近は各地に素敵な水族館が出来ていて、旅行の途中でも時間を見つけて、寄るのが楽しみになっています。すでに、国内、海外をふくめて、相当多くの水族館を訪れています。最近の水族館はそれぞれに、展示の工夫が進んでいて感心させられます。また、飼育技術の進歩により海から遠い街の真ん中にも水族館が出来ているのも嬉しいことです。
さて、我が家のアクアリウムですが、10代の頃からですから、もう50年位になります。かつては、「熱帯魚の飼育が趣味」なんて言うとネクラ人間の代表みたいに思われていた時代もありましたが、今ではテレビドラマなどでもファッョナブルな部屋のアイテムとして時々、登場しますし、高級分譲マンションのショールームなどにも置かれたりと、すっかり市民権を得た状況になっています。
私の場合は、実は飼育が先ではなくて、海に行ったときに、偶然、出会ったサンゴ礁の魚に魅せられて採集した魚を何とか家でも眺めていたいというのが、スタートでした。関東近辺でも夏になると黒潮に運ばれてきた季節来遊魚(かつては水温が下がる冬になると死んでしまうため死滅回遊魚と言われていました)が結構、採集できるのです。
今日も又、家でくつろぎながら、この小さな海を眺めていると、とても癒されます。

井伊直虎ゆかりの地を訪ねて

荒井 慶昌(西地区3班/株式会社弥興商事 取締役)

新年の休みを利用して浜松を観光しました。昨年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放送されていたことで記憶にも新しく、井伊直虎ゆかりの地を大変興味深く巡りました。一番の目的地である龍潭寺は、直虎の墓所も有り、その生涯にわたって関わりの深い場所だったため必見でした。
井伊直虎という人物は資料が極めて少なく、生まれた年も不明で、系図にすら名前が載っていないために、果たして彼女は何者なのか?そもそも本当に女性だったのか?などといったミステリアスな存在として語られてきました。私としては、女性であったことはおそらく間違いないかとは思うのですが。なぜなら彼女の魅力は、その人生がまさに優れたヒロインそのものだからです。女でありながら男として成長する少女時代はまさしく「ベルサイユのばら」のオスカル、総領に押し上げられて一家を担うさまは「セーラー服と機関銃」、領民を率いて圧政に立ち向かう姿はさしずめジャンヌ・ダルクといったところでしょうか。そして女性性の最も顕著な功績は、後見人として養子「直政」を育て上げ、先見の明を以て徳川家康に仕えさせることで井伊家を盤石の地位へ導いたことにあります。
その井伊直政といえばまさしく傑物、四十二歳にて早世したものの「井伊の赤鬼」と評されたほどの荒武者だったようです。その出世の早さは尋常で無く、年齢も他と一回りほど下だったため、ひときわその才が注目の的となりました。
そんな直政と家康のいた浜松城は、出世の城として親しまれているとか。この訪問で少しでも御利益を頂戴できたでしょうか

「キョウイク」と「キョウヨウ」を考える

退職後の男に必要なのは「教育」(今きょう日行いくところがある)と「教養」(今きょう日用よう事がある)─とシルバー川柳に詠まれる時代です。私は、この4月から代表権を息子に譲り、多少なりとも自由な時間を手にすることが出来ました。デスクも神田小川町に移しました。神田界隈には朝から同じような出で立ちの中高年男性が多いことに驚きました。ノーネクタイでスニーカーを履き、肩からショルダーバッグを下げ、ゆっくり歩く姿は明らかにサラリーマンと雰囲気を異にしています。神田の書店をのぞくと、さらにその密度は濃くなります。別段それが悪い訳でも、存在を否定する訳でもありません。むしろ今日この姿こそが高齢化社会で求められる生き方なのではないかと思います。
今年、日本人男性の平均寿命が80歳を超え、健康寿命が71歳とその差は9年の開きがあると言います。この9年の開きをいかに短縮できるかが日本の課題なのだと言います。社会保障制度に大きな不安がある以上、自らの老後を保障するのは自分自身です。朝から神田の書店を目指し、新しい情報や自分発見のヒントを求めて群れる日本男児が増え続けると思います。結果として健康寿命を引き上げることになれば、国家財政の改善に貢献できるのではないでしょうか。
翻って自らの姿をかえりみます。趣味の音楽や、ライフワークとしてのNPO活動に時間を費やすこともできるようになりました。若い人と抵抗感なく時間を共に出来ることに感謝の日々です。これはある日、突然可能となるのではなく、合間をみて、それなりに苦労した結果だろうと今は考えております。何かを始める時は偶然や自分の気持の高揚が最初のきっかけです。その小さなきっかけを、逃さなかったことが今日の環境をもたらしてくれたものと考えております。
無論、宅建文京区支部に入会したことにも感謝しなければなりません。バブル全盛期に入会し、鼻息の荒い先輩諸氏に圧倒されながら、失われた20年を駆け抜けました。その間、若い仲間との接点も出来、今日を支えていただける大きな財産となりました。支部報に寄稿文を依頼されることも「今日行くところ」、「今日用がある」ことに他なりません。
まだこれからの方々には「自分が思うほど人生は長くない!」を理解することは難しいかも知れません。日々の業務に全力投球し、支部活動に参加し そのうえで自分の世界を求めることをお勧め致します。

投稿ページ「私は海派」

山口巖(北地区3班/山口建設株式会社 代表取締役)

TVのコマーシャルじゃないですけど、今度の休み、遊びに行くなら“海に行く? それとも山に行く?”という質問には、私は“海派”です。そのルーツは、私の祖父が大変な釣り好きで、小学生の頃はよく一緒に海に行っていました。その後、大学に入学すると、体育会ヨット部に入部、年間100日以上の合宿をしてヨットレースをしていました。一般にヨットというと何となくお金持ちのスポーツというイメージでしょうが、学生が使うヨットは手漕ぎボートに2枚のセールがついたような船です。なので、風が強くなると、波が体の上を越えていくようなやつです。毎日、合宿所から備品をリヤカーに積んで 汚い恰好でハーバーに通うという、まったくイメージとは違うものでした。
学生時代に始めたヨットですが、卒業後も1人乗りのディンギー(小型ヨット)を買って、熱中して続けていました。しかし、結婚して2人目の子供が生まれた頃からは、そうもいかず、

ペースダウンしてしまいました。
その後50歳を過ぎたころからは、子育ても一段落して、また、時間にも余裕がでてきましたが、今度は体力的にちょっと厳しくなって、それ以降は、学生時代に取得した船舶免許をいかして、レンタルボートを操縦して友達と釣りに行っています。春から夏にかけてはキス、夏の間はアジやサバ、秋になるとカワハギ、寒い間はアマダイ(今年の総会で魚料理になっていたヤツです)というのが最近の1年のサイクルです。
釣りが大好きというよりは、船を気ままに走らせて海に出てボーっとして仲間とおしゃべりしているのが好きなのかもしれません。最近はこれが一番のリフレッシュ法かな?

 

第41回わんぱく相撲文京区大会にブースを出展

4月30日文京総合体育館で第41回わんぱく相撲文京区大会が行われました。協賛している宅建文京区支部もボランティアブースを出店し、青年会から中青年会長ほか7名がブースの運営を手伝わせていただきました。
およそ200名のわんぱく力士が土俵でかわいい熱戦を繰り広げる中、敗退してしまった子や取組まで時間のある子が各ブースを回りスタンプを集めることで、おたのしみ抽選会に参加できるという趣向になっています。
宅建のブースでは駅名当ての三択クイズが行われ、正解するとスタンプの他に支部からいただいた粗品や、お菓子などを配ったのですが、クイズを出した時の子供たちの反応が様々でまたそれが大変かわいらしく、子供と接することがあまりない自分にとって貴重な癒しの時間になりました。
(青年会総務委員長 寺村安弘)

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葛飾区支部青年会の懇親会に参加

4月15日(土)、葛飾区支部青年会総会の懇親会に原副会長と山田広報副委員長の代理として私の2名で参加させて頂きました。最近では映画「男はつらいよ」の寅さんを見送る<さくら>像が新たにお披露目され、ますます観光客で賑わう柴又帝釈天参道の「ゑびす家」にての開会です。
広々とした和室の大広間では皆さんお寛ぎのご様子で、歓談に花が咲きます。葛飾区並びに他支部の方々ともご挨拶の機会を頂き大変有意義なひとときを過ごさせて頂きました。軽妙洒脱な会話でコンパニオンを楽しませる先達の方々に舌を巻くと共に感心し、お客様との会話術として生かすべく勉強させて頂きました。
美味しい料理に舌鼓を打ち柴又名物のお土産にビンゴゲームでは景品まで獲得と、まさしく寅さんのように人情味溢れる素晴らしい会にお招き頂き感慨無量です。ありがとうございました。
(青年会広報委員長 荒井慶昌)

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島国根性の何が悪い!

投稿ページ
『島国根性の何が悪い!』

綱島 正寛 南地区 4班/㈱ツナシマ

最近、特にその気持ちが強くなってきた。永い鎖国政策から一挙に欧米に“追い着け!”“追い越せ!”で結果、たどりついた先はみじめな敗戦であった。その戦後七十年を越えた今、国のあり方を考える節目を迎えている。
グローバル社会とかで、人・金・情報の国境が無くなった。しかし、隣国・中国もアメリカもヨーロッパ連合(EU)も経験した事のない混乱と悩みにさいなまれている。
アメリカ大統領選の共和党の候補者が、メキシコ国境に「万里の長城」を築くのだと宣言し、イスラム教徒の入国を排除すると主張している。
一方では夢と希望と強い経済力の実現を目指したEUの中枢を担ったイギリス連邦が残留か脱退かで国論を二分した結果、離脱を選択し、EU各国も先行きに大きな不安を抱えてしまった。
中国に至っては共産党政権の矛盾や国民の不平不満を外に向ける必要に迫られ、内陸の攻防に明け暮れた4000年の歴史から突如一方的に「海運強国」を宣言した。その結果、中国は一夜にして世界の“ひんしゅく国家”に様変わりした。
今日、国土が狭かろうが島国であろうが、情報のスピードは大国に負けない時代となった。むしろ、大国はなまじ広い国土を持ち、隣国と国境を接するだけに、さまざまな難問を抱え込む時代となった。島国日本では国境をはさむ隣国との対応に苦慮している実態を推しはかるこ とは出来ない。国境を自由に人が往来できれば、そこにイスラム過激派や、不法滞在者、政治難民が紛れ込み、自爆テロや若者の暴挙にどれ程の資金と人の命を投入しているものなのか、島国日本の想像をはるかに超えているだろう。
とかく日本は特殊な国だと言われてきた。日本は国土が狭く島国だけに隣人との接し方には無頓着だった。日本人は日本社会の中でいかに理解され信頼されるかを最も重視し、隣国からの脅威など考慮する必要すらなかった。高じて産業社会も世界に通用しない日本だけの商品やシステムが多すぎると揶揄されるようになった。しかしそれが今日、島国であるだけに大国と同じ悩みを持つ必要も無く、この時代、人・金・情報を国として曲がりなりにもコントロール出来ている。
日本は地球儀の上では極東の島国、日本を知らない国は多々あると聞く。しかし、つくづく“島国でよかった”“島国根性の何が悪い!”と、最近一人でつぶやいている。